日記

わが身に隠された"内なる差別!"

TVで"大手コーヒーショップが聴覚障害者中心の運営で開店!"と報道された。聴覚障害のある社員提案が実現した。〇〇〇!だ。全店禁煙を先駆けて行った会社だ。

 "音"で判断するエスプレッソが作れずに苦労する聴覚障害者に "振動や泡を見て!"と。すると難なく出来上がり"うれしい!"と満面の笑顔。責任者(健聴者)は"私たちが守りすぎて彼らの力を発揮する場を奪っていた!"と。

 開店と同時に大勢の客が入る店舗は順調に営業。手話で会話する人同士なのでコミュニケーションがスムーズで、出来にくいことも共有できアドバイスもピンポイントの的確さ。だから、聴覚障害者たちが不安なく力を発揮できる。

 口の動きが判るように店員はシールドで顔を覆っていた。カードや絵文字などがあり全く不自由はないそうだ。それ、飛沫が飛びにくくて良いな!と思って見た。

 かつてテレビドラマで聴覚障害者と健聴者のカップルのドラマが流行った。『星の金貨』『愛していると言ってくれ』等。最近では漫画から映画になった京アニの『聲の形』がある。ドラマのシーンで、けんかした2人がお互いのホームから手話で話した。"怒って、ごめん""いや、僕の方こそ"とたわいない会話だが、線路を挟んだホームのこちらと向こうなのに2人だけの世界。遠く離れても内緒話が出来る...!手話がなんとも便利に思えた。

 聴覚障害者には聴覚障害者の文化がある。もちろん視覚障害者も同様だ。それぞれの特徴、個性がある。だから知的障害者は、どのような文化や特性があるのか...と気がかり。

 最近、特にステレオタイプの"障害者は守らなければならない""してあげなければいけない"が横行しすぎている。"守る存在"と"守られる存在"に分けた中で、社会で暮していると言えるか...。それは「インクルージョン藤沢」か...。

 若い頃、自らの支援に疑問を感じた。だが、長くなるとそれが当たり前になった。社会とは関係なく、支援=してあげること...になり、支援をする側の論理、文化に従わせる。それが「"お"しつけ」だと考えた

 支援と言いながら、どうしたら出来るかではなく、出来ないことを前提にしていないか...。箸でなくても、スプーンで、嫌、手づかみでも自分で食べる...と考えるのが支援ではないか。障害ゆえに出来ないことを前提にするのは差別ではないか。人は、制止され続けると抑圧的になり精神的に萎える。社会生活可能の判断基準は従順が必要だとしてないか。

 「インクルージョン藤沢」は出来る限り社会適応すること。"障害者だから許せ!"は、障害者の権利ではない。人は権利を主張すると同時に出来る範囲の社会的義務を負う

だから"共に生きる!"。だが、それは職員の負担が増える。障害ゆえに社会的基準値に合わせにくいことがあるため最初から"出来ない!"とする。出来ない理由を探す。障害者を下位に置き、自らを優位にする。それはわが身に隠された"内なる差別"。支援職員は"内なる差別"を承知した支援が必要!(2020.9)