日記

「お疲れ様です」考

新聞の特集記事で"「お疲れ様です」考"の見出しを見た。最近はどこでも"お疲れ様です!"のあいさつ。メールでも一行目は判で押したように"お疲れ様です!"が目立つ。常々違和感があったので読んだ。個人的には"疲れてないよ!"とか"今、会ったばかりなのにどうして?"などが違和感の始まり。かつて詩人の蜂飼耳さんが、神奈川文化未来賞(2006年)の受賞インタビューで"言葉は時代と共に変わりますから..."と答えた言葉に斬新な印象を持った。"なるほど..."と"それでいいの..."の感情が混在した。だから、年齢によって言葉が違うのは当たり前だと思っている。それゆえ"お疲れ様"に違和感を覚えるとは、年を重ね時代に合わなくなった自分を感じてもいた。

 だが、新聞では若い層にも違和感を覚える人がいた。「お世話してない人やされてない相手には違和感がある」「本当に疲れた時に使える言葉を失いたくない」と様々。

 言語社会学者の倉持益子さんは、芸能界→マスコミ→一般と広まったようだとし、①みんながんばっている社会通念、②周囲に配慮してこそまっとうだという国民性、③何か声をかけることがコミュニケーションだという思い...が使われるようになった要因だと分析。

 旅行作家の哈日(ハーリー)杏子さんは、会った瞬間に"お疲れ様"と言われる違和感を話した上で"それは台湾語の「触飽末(ジャパーボエ)」です。直訳すると「ごはん何食べた?」と言う意味なんですが、「ハロー」と同じように出会った時のあいさつ"だという。

 落語家の立川談修さんは、高座にあがる人へのあいさつとして使う言葉は"ご苦労様"。目上の人に対しては失礼に当たると言われた。尊敬語と丁寧語の違いだと判るが、落語界では普通に使われているそうだ。"「お疲れ様」は、落語界では仕事を終えた人にかけるあいさつ。「お疲れ様」も「ご苦労様」も、どちらも相手をねぎらう言葉。ちょっとした使い方のずれも、落語のように笑いあえればいい"とあった。

 蜂飼耳さんが言うように時代と共に変化する言葉は"業界"によっても違うようだ。また言葉で伝えたことが言葉通りに受け取られると、そこに含めたニュアンスが伝わらない時がある。伝えたいことと伝わって来たことが違うとそれだけで大いなる誤解を招く。

 支援にはどうしても意識しておかなければならないことがある。その一つが"ノンバーバル・コミュニケーション"。非言語的コミュニケーションである。言葉ではない表現を意識しないと、言葉だけで理解する不十分さに気がつかない。人は言葉だけでその人の"想い"を理解することは出来ない。特に言語化が苦手な利用者には、いっそう言語以外の表現(行動特性、奇声、視線、表情等)を意識しなければ判らなくなってしまう。

 音楽やダンスのようなパフォーマンスを見れば、人の表現は言葉だけではないと判る。意味を持つ言葉は明快なので言葉に頼りがちだが、恋人同士に言葉は不要、赤ん坊の泣き声で要求が判る母親、阿吽の呼吸の夫婦など豊かなコミュニケーションがある。"お疲れ様です!"で気を使っているのだとしたら、そんな言葉が不要な関係性はどう作ればいいのか...。利用者支援にある"言葉"≒"表情"≒"感情"に想いを馳せる。(2020‐11月②)