日記

理事長日記

家族の変化と療育のパートナーを考える

 年度始まりの忙しさを抜け出し、ボーっとテレビドラマ『私小説』を見た。発達障害がある小説家の話。妻のことだけを書くので"私小説"。我が妻が「どうして家族が見えないんだろう・・・」。高校時代も描かれているが家族関係ゼロ。親心は?共に暮らす家族は?結婚時の両親は?と思うが全くない。我が身も終了時「どうしてなんだろう?」・・・と。『キッチン革命』では、子どもの頃、真新しい"団地"に友を訪ね、キッチン革命の"DK"=ダイニングキッチンを見て驚きあこがれたが、この感慨が分かるかな・・・と。かつては食卓が家族像を表したがドラマの食事風景が減った。そういえば家族で食卓を囲む機会が減った。その後『グランマの憂鬱』が始まった。村人たちがグランマの家で食卓を囲むが、息子家族の住む都会では嫁姑の確執に悩む幼児が問題になっても父親不在。グランマの住む田舎に転居する"妻子"に父は付き添わない。だが、違和感なく進行し最後まで不在。男女共同参画、女性の働きやすさが社会問題化しているが家族に"父=夫=男"がいない。

 30歳頃、児童相談所で"グループ指導"を担当した。障害幼児の通園施設がなかったから児童相談所に1週に一度、親子通所。年齢や障害程度に合わせ療育を行った。当時は男が仕事、女は家庭の考え方が色濃く障害児の母の就労は社会的風潮が許さず、子どもに時間を割くのが当然。法人の親子登園プログラム「はぐ」の初期には利用者が多くいたが、次第に利用者数が激減し事業廃止。そこで「ぷれっじ」で試みたが就労する家族は欠席。事業の役割や意義を捨てきれないまま終焉した。その頃、幼児の母親が参加したインクルツアーがあった。車中、お互いに知らない情報を交換する姿に驚いた。児童相談所時代の親たちは固定電話の連絡網で情報交換していたが・・・。時代は変わり親同士の連絡は皆無の様子。この頃子どもの学習塾が集団指導(教室)から個別指導(対面)に代わったことがつながった。

 時代の移ろいは"サービス"に変化をもたらす。ドラマの"家族像"が変わるためには実際の家族像が反映する。これを示す言葉が"家族機能の外注化"。最近は家庭で洗濯していたものも、日常の掃除も業者委託ができる。また、"コケコッコ症候群(個食、欠食、孤食、固食)"も定着。朝食を食する人が増え、家族団欒はファミレスでそれぞれ別メニューを食べる(別)食が増え、好きなものしか食べない(定)食が増えた。また、それぞれの都合に合わせて1人で食べる(独)食が日常となり食卓は家族を映さなくなった。家族関係が希薄になったかどうかは判らないが、家族内人間関係に縛られない暮らし方は家族像が変わって当然。それゆえ「家族を療育のパートナーに!」なることを求められる障害福祉サービスは今まで通りではなく新たな手法が希求される

 まだコロナの残骸が気になる昨今、どのような手法があるのかを探す作業は並大抵ではないが、若者がスマホ中毒になるほどネット社会に浸っているのだから、ネットを使えば療育の情報を目にする機会は増えるのではないか。ウイズコロナの時代に学んだZoomをはじめとしたネットを利用した会議や研修やイベントを考えれば、対面の方が良いのが判っていたとしても、次善の策としてネットを利用し"家族を療育のパートナーに!"になれる工夫があっても良いはずだ。(2023.5)

親子と言えども、人格は別!

 今では考えられないが父は13人兄弟の2番目。明治生まれで青春時代はモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)の大正時代。当時は長男が家を継ぐのが当然だから、義務教育終了と同時に寺の奉公に出たが、修行になじめず飛び出し郵便局の小僧に。世襲と学閥の中での仕事ぶりを偲ばせたのは、年賀はがきを10人の子どもに投げて渡す儀式。郵便番号が定着する前は行先を示す小さな口が並ぶ棚に投げ入れ地域を分けた。早く終わらせるために出来るだけ遠くから投げ入れるしぐさと同じように投げ渡した。郵政一筋で当初は逓信省だった。今は株式会社だが当時は国家公務員。記憶に残るのは大船や藤沢の郵便局長時代だが、義務教育終了の職員が局長になるのは並大抵なことではなかっただろう。父は箱膳で食事をした。壊れてからは買いようもなく1人炬燵で食事した。その前で食事をさせられたので兄たちから"殿前"と呼ばれた。のちに母から"一緒に居られる時間が一番短いから..."と聞いた。小学校5年時に病に伏せ中1で他界。状況が吞み込めず涙を流す間もなく葬儀が済むと父を亡くしても泣かない気丈な子と言われたが泣くに泣けなかっただけ。

 無口な父が、時折勉強の様子を覗き込むようにして教えてくれた。教師になりたかったからか、兄弟の多くが教員になり教師だらけの家だった。眼光鋭く、物事を射抜くような目が印象的でダメと言ったら絶対ダメだった。小学生の頃、勇気を振り絞ってピアノを習いたいと話したら"女房子供を養わなけりゃならない男が音楽なんぞにうつつを抜かすんじゃない!"と一喝され断念。会津の子育て"ならんものはならん!"と眼が話していた。経済的なゆとりがあるわけでもなく、出来ないものは出来ないと真意は判っていた。願い事がすべて叶う現代は、子どもに"ならんものはならん!"と言いにくい時代になったと思いつつ、父の強さを思い出す。仕事人間だったが、存在感は抜群で、無言の姿が"努力は自らのもの!"とか、"誠実さは自らを助く!"などと言われている気がしてとても道を逸れることなど出来なかった。

 両親の郷里である広島に嫁いだ姉の結婚式後の酒席で"しょうさん(父)には、本当にお世話になった..."と繰り返す人につかまり長時間、聞かされた。周囲の人もうなずいていた。見たことも聞いたこともない話しをくどくどと繰り返されたが嫌ではなかった。その後、郵政に努めた兄が話したことは、課長時代に部下の子どもが万引きをして警察の厄介になった事。当時の公務員は家族の不祥事でも辞職することがあった。子どもの世話もまともに出来ない奴に仕事は任せられない...か。上司に迷惑をかけまいと辞職願を持参してきた。父はその辞職願を封も切らずに、その場で破り捨て"親子と言えども、人格は別だ!"としかりつけたそうだ。厳格で、言葉少なで、状況を見抜く姿しか見たことのない父の優しさを見た。県立保健福祉大学の初代学長阿部志郎先生の"優しさは、人を憂う...と書く!"を思い出す。べたべたとした優しさではなく、その人をおもんばかることが出来た時、本物の優しさがにじみ出る。そんな一言が発信できる人になれただろうか...。早世した父は周囲からの情報を得て、バブルのように膨れあがり、心の中にたまり続け、今も追い越せない。既に父より10年も永らえたというのに...。(2023.4月②)

連なる目標を見すえる!

 年度初めは顔ぶれが変わり次の目標へ向け始動する。今年度、法人は"再整備元年"とし、未来の障害福祉サービスに向けたスタートの目標を掲げたことからいっそう心改まる。こう話すと"再整備"が目標のようだがそうではない。再整備はいくつもの障壁を次々にクリアしなければならない。だから建物が新しくなっても成就したとは言えない。

入所事業では個室化された環境で利用者の暮らしは変化する。その時の支援は...。職員は新たな支援が始まると承知したい。一方、生活介護事業所では、地域の人々との連携は...、利用者の主体性は...。従来の支援とは違う"質"が求められる。また、地域の人々との交流が増えれば職員個々の力量が問われ、法人の統一感が見えなければ信頼の礎が崩れる。それ故、事業運営だけではなく組織的な管理運営や地域社会との連動を意識した事業展開が必要だ。それが法人のミッション"インクルージョンふじさわ"や"それぞれのマイライフ"の具現化と連動する。つまり建物の再整備と同時に新たな環境を生かし、展開する方法が求められる。目標はバラバラではなく連動していると承知したい。

 これまで多くの社会福祉施設再整備を見たが、多くが従来の踏襲だった。だが藤沢育成会は"未来を創る!"と意識したい。たとえば、"地域福祉"の代名詞・グループホームを入所施設育ちの職員が中心に運営すると、入所施設の支援と同じことが多い。新しい建物にグループホームと名付けても「地域福祉」は成就しない。環境を生かした支援が創り出せなければ再整備とは言えない。準備には多くの時間を要し、カリスマひとりでは出来ない。そこで、最終目標に到達するために多くの対策を練った管理、運営、支援の手法を創り出さなければならない。そこに必要なのは"人材"。人材は"人財"と考え豊富な育成が必要だ。今だけを見ていては"人材が人財"にならない。事業と同様に"未来を見すえた"組織的連動が必要だ。往々にして"専門"知識のある人を"良い人材"と考えがちだが、知識を知恵に変えられなければ宝の持ち腐れだから自ら学ぶ=学習力、自ら考える=思考力、そして出来る事を探す=実行力を育てる。それが人材を人財にするポイント。さらに"チームの力量"を蓄えなければならない。個を重んじすぎると組織の力量を高める時に弊害をもたらす人材が育ちかねず要注意。だから①意思が統一された組織力、②チームを繋ぐ複合力、③チームで結果を出す実行力が大切。このためには、職員が多様に発言し提案する環境が必要。"やらせられる仕事"ではなく"自らの意思でやる仕事"が希求される。それはミッションを共有しひとり一人のモチベーションが不可欠。"ライン"の意思決定と"スタッフ"の自由闊達な発言や切磋琢磨による縦軸と横軸がかみ合わなければならない

社会福祉法人は業務が日常的なため新陳代謝しにくく、切磋琢磨を回避したがるが、"日常"を仕事とするとは利用者の日常やプライバシーに踏み込むこと。故にその非日常を日常と混同しない知識やセンスを持たなければ利用者におしつけ、支援の質が下がる。だから再整備は自らも再整備して、質の高い支援のための準備が必要だ財政課題をクリアし、建物の再整備をクリアし、新しい支援が確立し、組織運営が下支えする体制等すべてが再整備。つまり"目標が連なっている"。そのすべてを含めて"再整備元年!"(2023.4)。

不思議なご縁

 実は一度も同じ職場にならず、直接の関係はなかった。もし同じ職場だったら一触即発だったのではないかと思う。だがいつも気になる人だった。初めてお会いしたのは20代の頃。所属施設の再整備のために、県庁の責任者が来園し説明する会議に出た。当時は、指導員が運営中心で保育士は支援中心だったから若手の指導員にも役割が回ってきた。説明を聞いた後、質問をした。課長から再整備の考え方を問われたばかりだったので、結構生意気なことを聞いたようだ。会議終了後に背の高いほっそりしたその人が近寄って"ノーマリゼーションを知っているか?"と聞かれた。間違いなくノーマライゼーション(英語)ではなくノーマリゼーション(デンマーク語)だった。承知しておらず答えに窮していたら"専門職ならノーマリゼーションぐらい知っておけ!勉強しろ!"と言われた。言い返すこともなく立ちすくんだ。しばらくしてそれがノーマライゼーションで、その後"福祉の哲学"と言われる言葉と知った。世間はまだ入所施設しか考えていない頃の話。その人は行政職で福祉職ではないと後から教えられ驚いた。それは次代への学びの一歩となる言葉だった。

 その後接点はなかったが、高齢福祉施設建設担当だった頃に障害福祉施設建設担当との交流が頻繁だった。障害福祉課長がその人だった。はたから見て進歩的な考え方の方針決定をうらやましく思った。だが、生一本な性格ゆえ担当者は考え方を受け入れてもらえず、夜な夜な愚痴を聞くこともあった。しかし、その流れはノーマライゼーションを実践しようとしていると読み取れた。行政の場の主流は行政職。しかもその人も行政職。失礼ながら異端児...。行政では、淡々と従前踏襲で仕事をこなしている人が多いと思われているようだが、考えてみれば、そのままやり続けたら新しい課題にどう取り組むのか...。問題に触れずやり過ごすことはできない。だから、勇気をふるって立ち向かう仕事ぶりが次第に好きになった。だが、他課のヒラ職員が直接話せるわけもなく遠い存在だった。その頃、(福)藤沢育成会は法人認可された。法人設立の日が1122日≒良い夫婦の日だと初めて言ったのが、当時障害福祉行政全体の責任者だったその人。

 立場が近づいた頃その人は退職に向かう年になり施設長として転出。その頃、反対に本庁勤務が増え距離が縮まらなかった。民間の施設長を経て法人理事長となった頃、一度だけ県庁にいらっしゃった。丁重にお迎えし要望事項を承った。同席した背の高い常務理事と並ぶと視線がどうしても上に向いた。後に一緒に仕事をするとは思いもよらなかった。しばらくして福祉職の同僚から電話があり、癌を患って今回最後の会合となるとの説明付きでお誘いを受けた。正直、戸惑った。一度も同じ職場経験がないのに出席して良いものか...。職場の皆さんだって違和感があろうと思ったが、強く出席を求められた。訊くと旧知の仲間たち。最後に"本人のたっての希望なの!"と言われ承諾した。行きたいのに遠慮していただけだからお誘いに感謝しかない。末席でお話を伺った姿は、病んだ体に鞭打つ感じでつらそうに見えたが常に笑顔。本当に良い時間と感じている様子で、あの笑顔が忘れられない。まさか、その後を引き継ぐとは思いもよらなかったが、ノーマライゼーションを継承する役割を担えたのも何かのご縁だったのかもしれない。(2023.3月)

"凛"としたフクシが欲しい

 以前から、ちょっと変だ...と思っていた。違和感の始まりは、若い職員が傷だらけで来た時。強度行動障害のある利用者が興奮して暴れ、爪を立ててひっかく行為に応じ傷だらけになったそうだ。職員全員が気にかけていたがその中に入れなかった。何故やらせたのか...の回答が見えなかった。利用者に応じるのが仕事だと言うが、傷だらけで受け入れたら利用者はどう感じるだろう?暴力が許されると思わないか...。エスカレートしないか...。嫌だと言えないのか...。してはいけないことをどう教えるのか...。「自己決定支援」とは何か?「意思決定支援」とは何かを理解しているか...、と疑問だらけだった。

 (福)藤沢育成会は"インクルージョンふじさわ"を目指す。それは誰もが街で暮すこと。だから、"それぞれのMy Life"も並行させる。なぜなら街で暮すとは、それぞれ自分らしく暮すことと理解されているから。それを社会福祉では"個の尊重"と言う。ひとり一人が大切にされるとは、誰もが地域で暮すことが目標。基本は利用者が地域社会の人たちと同じように暮すこと。それは"社会のルール"を守らなければ嫌がられる。でも、社会のルール≒決まりごとは、利用者には難しいことがある。だから、入所施設で暮せばいいと考えられてきた。だけど、もっと自分らしく暮したいのに、集団生活では許されない。堂々巡りで、どうしたら良いか答えが見つからない。

 でも、次第にグループホームやアパートで暮す人が増えた。身体障害者は、前から地域で暮して来たので身体障害者入所施設は少なくなった。だけど、自分の考えを決めにくい人がいる。決めても出来ない人もいる。周りの人たちと仲良くなったり、約束を守ったり、自分のことが出来ないと難しい。そこで、グループホームでは地域のことや、街の約束を代わりにやってくれる世話人さんがいる。世話人さんが手伝ってくれるので、多くの人たちが街で暮し始めた。でも街には心配がつきまとう。迷惑をかけることもある。そこで次第にごめんなさいの気持ちから卑屈になる。迷惑をかけていないのに卑屈になると、どんどん押し込まれる。そうしないために"こびる"。"こびる"を辞書で見ると「他人に気に入られるような態度をとる。機嫌をとる。へつらう」。近隣の人にこびることが地域生活を支えるのなら、施設内で顔色を見て暮すのと何が違う?!自分の部屋があるだけで良いのか...。施設を出れば良いのか...。自己決定できなくても良いのか...。次第にモヤモヤが増える。でも、やりたいようにすると施設で暮せ!と言われてしまう...。こびたり、おもねたり、へつらったりしないためにはどうしたら良いのだろう...。

 「地域生活の推進」と言いながら、このようなことを考え、話し合うことが本当に少ない。"地域で暮す"ためには、約束事が守れなければ難しい。だけど、判らないことや出来ないことがあるから、協力してもらって"地域"で暮す。でも支援は人それぞれだから、ひとり一人に"個別支援計画"がある。計画通りではなくてもその時に必要なことを手伝ってもらわないと暮せない人が地域で暮すためには、地域の人たちの理解が増えたらやりやすい。本物のボランティア経験が理解する人を増やす。だから、卑屈にならず、おもねないための仕事もある。地域生活のためにはこれらすべてが職員の仕事。(2023.3) 

"チームを創る"から「チームが出来る」に

 長い職場体験でも"ここは素晴らしい!"と思うことは少ない。もちろん、一生懸命努力するが、空回りしたり、お先走りがひどかったり、後手・後手に回るなど嫌気がさす経験をした。だが、行く前は嫌だったが赴任すると驚く仕事ができる時がある。そこにはいつも素晴らしい仲間がお互いを尊重しあう日常があった。だから意識してチームを創るのではなく、結果的にチームが出来る!初めての体感は"地域がない場だけどやってごらん"と言われた地域サービス。前年から準備に入ったのは自分だけ。研修と地域サービスが担当だった。スタッフが3人と判った時は愕然!出来ないと思った。当時は地域サービスが理解されてなかった。初年度3人で日中活動(現:生活介護)も担当。壊滅的でもやらざるを得ない。利用者に迷惑はかけられないので適当に若い職員に任せることは考えなかった。当然、業務が多く飽和状態。いつまでも事業の準備が整わなかった。それでも優先順位を決め始めると、少しずつ周囲の理解が深まり協力し合って軌道に乗り始めた。

 驚いたのは、この先の動き。同じ課のもう一方のグループが、時間を割いて協力してくれた。残業だが誰も拒否しなかった。すると、翌年から事業に専念する環境が整った。時間が確保出来るとオーダーが増えた。事業を利用した家族から他家族へ口コミで伝わった。質をリードしたのは相棒。専門領域からの"見立て"は説得力があった。同職種の若手職員の仕事の質が向上した。さらに事業を受け入れなかった居住職員から、担当になりたいとの希望が届く。SW(ソーシャルワーカー)は1人だから、SW面接以外は居住担当にお願いすることが勉強になったとのこと。やりたい気持が施設全体に生まれると生活寮から利用依頼が来た。そんな時、対象地域以外の人が利用した報告。緊急時、やむを得ないが制度的には不可。事情を説明し困ると話すと"それを何とかするのがあんたの仕事でしょ!"と!児童相談所と協議し綱渡り的対応でしのいだ。もはや園全体が"チーム○○○"となった。これを維持するため情報は出来るだけ早く流した。特に親面接は、情報の齟齬が家族との関係を崩すので、夜自宅で面接記録を書き、朝一番に担当に渡した。居住棟からも同様だった。

 もう一つはチームの責任者だった時。正直言って怖かった!務まらない...と不安だった。1年経った頃、辞めたいと職員に漏らした。"今やめたらこれまではなんだったのか!"と。転職は逃げと思い返した。彼は決して前に出ようとしないが、確実にフォローしてくれた。とても安心感があった。他にあと3人。一歩前を歩く人。正しさを探求する人。結果を出す道を探る人。4人は責任者を支え陰に陽に働いた。一方で部下を指導し、叱咤し、励まし、支えた。忙しい職場で時に精神的につらくなる人がいた。その人のために恢復する道を探りどう環境を整えるか腐心した。一方で非常勤の人たちにも気を使ってチームを作り上げた。もちろん、出来ないことも、あきらめたこともあった。でも、若者たちのアイディアを活かし、上席者と調整して成し遂げた。いつしか"チーム□□"と呼ばれ周囲からもチーム力が認められた。出来上がったものを当時の県立大学阿部志郎学長から「△長が怠慢を決めたから出来たものですね。素晴らしい!」とお褒めをいただいた。最高のほめ言葉だった。素晴らしいチームの一員でいられたことに感謝している。(2023.2月②)