日記

理事長日記

"かなしばり"から解き放たれるために

 "○○じゃなきゃ、いけないんだよ!"と孫が言う。理由は判っていないようで"どうして?"と訊くと困惑した。"○○でなければならい!"ことが多すぎる気がする。どうあってもダメなことがあるのは事実だが、時代の変化や必要性に応じて変わる。言葉も時代と共に変化し変わっていく。それでも良いが、根拠を知らずに踏襲すると"貴方は?""???"。小学生ならまだ判らないんだな...と思えるが、同様の大人を見る。誤解を恐れず言うと学校が答えはひとつだと教えるので大人になっても答はひとつだと思い込んでいる...。要因、誘因、遠因を考えると"評価"がちらつく。辞書を引くといくつかの意味が並ぶが末尾に"決めること"と。しかもその例として「教育評価の略」。教育効果を"決める"とは善し悪しを決めることと同じようだ。"決める"ことが学校の日常なら、しかも自分で決める範囲が狭まれば窮屈に違いない。さらに評価が固着し児童・生徒が変化しても過去の評価を鵜呑みにし続ける。それは先生だけでなく、児童・生徒も同じようだ。

職員から"勉強は苦手..."と聞く。子どもの頃の評価を鵜呑みにし、固着させているように見える。人は変化しないのか...。どう考えても変だと思うが、金縛りから抜け出せない人を見る。我が身も"数学は苦手だ!"と思い続けている。始まりは計算問題の"0点!"。すべて小数点をつけ間違えた。衝撃的で、その後は次第に苦手意識が芽生え、自ら育み、ぬぐえなかった。しかし、仕事中に"思考が数学的ですね"と言われ困惑。数字を読み、意識した結果だが、相変わらず数式や公式は全く分らない。何のために数学(算数)を学ぶのか...と考えると公式や数式を覚えるためではないはずだが、評価は満点と零点で決定的に違う。学校での評価が自らを固着させ、次の発展を正当に評価しない。

そういえば、大学受験時にどうしても○大学に行きたいと可能な限りの学部を受験した同級生がいた。何ゆえに○大学かを聞く気にもなれなかった。何を学ぶかが全く見えないまま大学に行く価値があると思えなかった。しかし、社会的には○大学卒業のブランドは高い。人はさまざまな"評価"を受け、評価して暮らす。商品選択の自分にふさわしいかどうかなど...。だから、仕事を選ぶ時も主体性を評価する。しかし、最近は親に主体性をも委ねる人が増えた。"良い子は親の言うことを聞く!"とは、いつまで続くのか...。

 対人援助職には必ず評価≒アセスメントがある。社会福祉領域では"評価"は"アセスメント"。意味は"何を必要としているかを評価、査定する"看護系では"看護上の問題点を理論的に分析すること"心理系では"潜在的な可能性といった側面を全人格的な理解に努めること"。微妙にニュアンスが違い興味深い。学校教育でも"アセスメント"を使うかどうか承知していないが、いずれにしても"評価のための評価"≒"意味を見失った評価"になっていないか...。強度行動障害のある人たちの支援や"意思決定支援"が課題である。だが、それらすべてが同質に見える。"評価"に従順すぎる。"意思表出"に躊躇が見られる。人は必ず変わるのに評価≒傾向を固着しすぎていないか...。それは支援・教育・看護をする側もされる側も、評価を見誤っているのではないか・・・?かなしばりにあっていないか...?呪縛から逃れ本当の"自己意思"を表す時が来た!(2023.2)

仕事の流儀

 行政の仕事は決まり事が多く、誰でも同じと思っていたが全然違った。始めての管理者は先頭を走る行政マン。翌年、福祉職に変わり驚いた。"あのね!"が始まると福祉論が止まらない。正論だが出来る?...にチャレンジ。出来ることも出来ないこともあった。

 再びの行政の場では余裕しゃくしゃくの上司。ある日、行政計画を創ると言い出した。残業続きで行政計画までは...としり込みしたが断れない。ただ、福祉職としては「〇〇福祉計画」を創る仕事は魅力的。何も知らないがスタッフには経験者も、上司と共に計画を創った人もいて動き出した。だが、社会福祉専門職は2人。もう1人は初の行政の仕事で苦労の最中。聞き取りが始まると質の高い質問が矢継ぎ早に飛び出した。姿が見え始めると上司が近寄り分厚い計画書を持ちパラパラと眺める。しばらくすると"この図なんか良いんじゃないか""こっちの方が良いかな"と作図の参考にしろと言われ納得。助言者の大学教授訪問時にデパートに寄る。手土産かと思ったら靴屋。履いていた靴を脱ぎ同じものを買って古いものは店員に処分させた。ダンディーで格好つけたがる人だったがネクタイはいつも同じ。同じスーツ、ネクタイを複数買いそろえ毎日同じ姿で出勤。ある時、訊ねたら"そんなことに気を使うのは面倒!"とそっけない。毎日、麻雀と酒で夜な夜なフル稼働。付き合わされる身にもなって...と思った。退職後すぐに他界した。

 次は中学の先輩で同じ担任だった。なかなか判断しない。慎重とも言えるが優柔不断とも...。だが、専門職の考え方をよく聞いてくれた。ある日、課長の意向だからこれで行く!どう考えても納得できず違うと繰り返し説明した。判っているが変えない。苦り切って立った位置から説明書類を机に振り下ろした。すると、書類がす~っと上司の前まで、アッ!"上司に書類を投げた部下は始めてだ!"と。二度と浮かばれない...と思っていたら"飲みに行こう!"と誘われた。おしかり覚悟でついていくとラーメン屋に。ビールと餃子を頼み自分はタンメン。"そうか、飲めないんだ..."。なんで誘ったのかと思っていたが、本人は上機嫌。タンメンをすすりながらビールを勧めた。なめるように飲んでいると"自分も違うと思っているがやって欲しい"。変更できるチャンスを探り続けると説得された。その後助言者の大学教授に話して変更してもらった。若い頃、どうにも休めず歯科治療に行けずに総入れ歯になった。誠実で働き者だったが、退職後一切の関係を断った。

 計画作りが佳境に入ると上司が変わった。しかも、福祉職の相棒も変り負担増に。今度は女性、切れ者。ズバッと論理的に指摘し熟慮を重ねて最終章まで作り上げた。中途半端では論破されるから適当なことは出来ない。他業務との並行はきついが最後までやり遂げたかった。だが、やり切れずそのままにしておいたら、出来たかと訊かれ、まだだと応えた。すると"あんたは、好きなことしかしないのね!"と叱責。"だから福祉職なんです!"と言い返した。驚きも見せず"そう!"だけ。さっさと仕事を始めた。またまた"しまった!"。だが、その後も関係は良好で繰り返し話し合った。最後に行政マンらしい方法で解決して事業化に成功。定年後、先に神奈川を発ったご主人のもとに転居。今も年1度だけはがきのやりとり。こんな人たちに教わり仕事の流儀を学んだ。

"私には夢がある!"~あけましておめでとうございます~

 1964年、キング牧師は「I have a dream」と黒人差別撤廃を訴え、路線バスに乗らない「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の中心にいた。非暴力の社会運動。1863年、リンカーンの奴隷解放宣言から100年後の出来事。"差別"とはこれほど長い時間が経過してもなくならない。1960年代、日本で障害者の当事者運動が始まった。"命を選別するな!"と訴えた青い芝の会神奈川支部の横田弘氏は、1977年、路線バスを止め"バスに乗せろ!"と訴えた。「川崎バスジャック事件」。その後も継続し今の"交通バリアフリー"を築いた。

二刀流?三刀流?!

 初めての本庁勤務が2年で終りラッキーと思い転勤先の知的障害者入所施設に向かった。前任地はそれほど辛く何もかも新人職員以下だった。前任者は福祉職の先輩だが、行政事務経験者でもあり同じようには出来ず失敗続き。何とかしようともがき続け青息吐息だった。だから転勤でホッとした。だがそうは問屋が卸さなかった。園長は、長い本庁勤務を経て久しぶりの施設勤務。課題を見つけては考え方を問われ止まらない。"今まで通り!"は禁句。根拠のない話しは聞く耳持たず。説明を求められても簡単に理屈はたたない。ある日、プロジェクトを作って職員全員の意見を聞くシステムを考えろ!と厳命。「運営検討プロジェクト」を企画し提言したがその場で却下。職員全員の意見を聞く場でなければ意味が無い!超勤が職員の負担になると伝えたが揺るがない。仕方なく8プロジェクト構想を提案したら、9プロジェクトになった。最初に提案した「運営検討プロジェクト」を中心に8個のプロジェクト群がそれぞれの課題を検討する。その要綱策定の担当となり、運営ルールと進行マニュアルを創り、始まった。

 思った通り超勤を嫌い出席者が少ない。だが、出欠が明確で夜勤明けでも苦にせず皆勤の人もいる。発言内容を追うと意思が明確な職員のメッセージが伝わった。今は無理でも何とかしたいこと、その気になれば何とかなることが混在した。それを「運営検討プロジェクト」が取りまとめ動き出した。結果が出ると職員のモチベーションが上がる。職員参加がもたらすものを目の当たりにした。仕事への意欲が高まり、職員ひとり一人の意識が向上した。鍵を使わない工夫として施錠しない時間帯を設けた。完全開錠の寮も出来た。自らの意思が反映するため成功率が向上し、行事等も変化し意欲的な業務推進になった。

 2年後、施設内の考え方を変えられると思った矢先に転勤。本庁勤務。しかも、行政計画の策定や運営管理等。園長に最後まで推進役を果たしたいと希望したが受付けられず。頑固で、一徹な性格。一括された後、"誰かがやらなきゃいけない仕事!""選ばれたら最善の努力をして来い!"と。憤懣やるかたないが断れないことは百も承知。不満を口走ったのは甘えだったとすぐ気づいたが"誰かがやらなくてはいけない仕事!"の真意は判らなかった。長~い時間のあと、真意が判ったのは退職間際。"現場≒直接支援の場"だけではなく、"相談≒間接支援の場"、"行政≒環境整備の場"が整わなければ出来ない。しかも、利用者支援では、情報をひとつひとつ丁寧に調べ積み上げなければならないが、行政の場ではそれでは立ちいかない。様々な情報を丁寧に調べる重要性は、直接支援、間接支援と同じだが、集めた情報を切り落とす作業が必要。つまり、ひとり一人の苦労の同質を見出だしながら制度を作る。すべての人にあう制度など不可能だから、共通項を集めて制度に反映させる。これを現場の状態抜きにすると、いわゆる"机上の空論"。だから支援も相談も...の二刀流が求められる。しかし、行政を知らないと制度にはなりにくいので、三刀流...か?誰かがやらなければ...は、現場の状態・課題からどう共通項を探し伝えるか...だ。これが出来ると出来ないとでは、制度の成熟度が決定的に違う。だから福祉職の役割がポイント。その後の仕事の流儀に大いなる変革をもたらした一喝だった。

音楽の"聴き方"

 世の移ろいは時代の流れを表す...が歳を重ねると"本当だな..."と実感する。だいぶ前だが、新聞に『オンキョー自己破産』とあった。一世を風靡した音響メーカーが倒産した報道になんとも言えない気分になった。古いものはいらないと捨て置かれた切なさ...

我が家に初めてステレオが来たのは小学生の頃。兄が"月賦販売"で買った!初めての曲はサムテイラー。テナーサックス奏者でジャズのレコード。結婚したてでスピーカーが買えずカセットレコーダーを妻の電気ピアノにつないだ。流れた曲は井上陽水。しばらくしてスピーカーがやってきた。これが冒頭のオンキョー。なけなしの金をはたいたスピーカーで聞くレコードは格別。流れた曲は小椋佳、そして映画音楽。だが、さらに移ろい移動時に"ウオークマン"で聴き始めた。遅い帰宅時、暗い道でイヤホン越しの冨田勲や喜多郎は幻想的で1日の疲れを癒した。レコードはCDに変わり、カセット、MD...。ITの進化に伴い音源は進化し続けている。お初は"iPod"。パソコンから音楽を手に入れる手法に戸惑ったがなんとか出来るようになった。だが、さすがのiPodも充電器が摩耗し、今は部屋に鎮座まします音源になった。ここまでくると一種の中毒症状か...、聴けないと一抹の不安を覚える。だが年老いて頭が固くなり今に追いつけず困っていたが、スマホから聴けると知る。毎月500円で聞き放題。ありがたいことに古い曲は多くが無料。移動時のお供になった。オペラ、バイオリン、ピアノ、映画音楽、フォーク、シンセサイザー、イージーリスニングなんでもあり。検索が簡単なので実に多様になった。

 こうして見ると音楽の流行には音源の変遷も影響があるようだ。レコード時代は大事に繰り返し聴いたが、その場で検索する今は、その時の気分で簡単に変えられる。手軽ゆえ使い捨てる傾向もあり1曲の重みは薄れた。故に流行の回転が速くなった。また、気軽に聴けるので誰でも音楽に親しむようになり幅が広がった。ところが、今でもレコードを大切にして針の落ちる音まで楽しむ人もいる。ここでも多様性が目立つ

 学生時代の音楽喫茶では大画面のカラヤンがベートーベンを指揮し、多くの人が同じ空間で楽しんだが、今はコーヒーショップでもイヤホンから流れる自分好みの曲を1人楽しむ。重ねると社会福祉制度もこの時代背景を背負って変化している。戦後、法整備が始まった頃は、生活保護受給にスティグマを感じていたが、最近は次第にその感情が薄れた印象がある。悪いことではないが、一方で"不正受給"や"プチ生活保護"などが話題になりすぎマイナーイメージも増えた。一方、KILCの鈴木治郎理事長が話した"地域が施設化した!"の驚きの言葉からは、法整備が整った今は心配無用とばかりに無関心が横行しているようだ。さらに、幼児の親たちと話した時の驚きは、制度をネット検索しても情報を交流させないようだ。個別化しすぎて情報の偏りも...。制度が一定程度、充実すると個別性、多様性に応じやすくなるが、情報の共有や相互協力などの人間関係が希薄に...。そういえば音源がステレオの時代はその場にいる人たちが音楽を共有したが、ウオークマン以降の音源は恋人同士が分け合う姿を除けば個人的。何やら、音楽の聴き方が福祉サービス利用方法の変化に通底して見える。そこに時代のうねりがある...のか。

"あぁ~、やっぱり...ぶつかったか!"

逸話の多い人だった。少々酒が入った帰宅時に検問に合うと"○○はこっちですか、急患です!"とあわてた様子を見せれば大丈夫...と。講演会で"はしかやおたふくはどんどんうつしてもらいなさい。"と。極秘事項としつつ人事の話をした後"人事ほど面白い仕事はない"と。だが、園長室で専門書を読み新たな医学知識吸収に余念がない。団体交渉では最前線に立ち、はぐらかすような論議でマイペースに。誰もが愛してやまないキャラクター。仕事でのチャレンジ精神を教えてくれた親父のような存在。還暦時に奥様同伴でお祝いをした。訃報を聞くと元同僚の声に押され「追悼の会」を開いたら100人を超えた。

 出会いは「重心訪問」。在宅重症心身障害児を訪問してアドバイス。担当は早めに診察して次に行きたいが雑談から始まる。診察を始めると親が上げた服をおろし聴診器を入れた。聴診器は雑談中に握りしめ温めていた。身体が弱い人への配慮だ。こんな医師を見たことがなかった。熱いものが流れた。翌年、転勤先の園長に着任。赴任初日、施設の犬に吠えられた。"君は吠えられなかったが、僕は吠えられた。歓迎のされ方が違うな"と戯言。翌年、地域サービス開始と同時に困難ケースが次々と来た。その時、障害受容が難しい母親が低学年の女子と相談来所。壁に激しい頭突き、自傷で髪が擦り切れてなくなるほど頭部をたたき続けていた。主治医からヘッドギア装着を指示された。生活寮は従ったが、面接時"それを着けるなら2度と連れて帰りません!"と拒否宣言!少しでも緩和策がないかと医師に相談した。少しでも親子関係を修復するためだったが"私(医師)の指示が聞けないの!""命が一番です!"と一蹴。それでも食い下がり、緩和策を講じたかったが決裂!

 翌日、園長から呼び出し。昨日の様子が医師仲間から伝わっていた。おしかり覚悟で入室するとニコニコ顔。ヒステリックな医師の性格を承知で"やっぱり...ぶつかったか!""やりたいようにやりなさい"。拍子抜けした。"しがない公務員には無理!俺が責任取るから思いっきりやってこい!"。また"やりたかったら、きちんと説明しろ!"と言われ続けアイディアや工夫を聞き入れてくれた。組織にはない意見交換の場"プレ寮長会議"を始めると、時折その場の意見を聴いていた。職員の意思を尊重しなさい!と言われている気がした。次第に前向きに仕事に励む職員が増えるのを実感した。

 児童相談所を3年で転勤と告げられた時はこの世の終わりに思えたが、その後の5年は一番充実し思い出深い仕事だった。この時代の障害者は一生施設生活だったが、藤沢や横浜で親たちが「地域作業所」を作り、グループホームを始めた頃の地域サービスのソーシャルワーカー経験は、障害福祉への想いを確固たるものにした。○○○組と言われ、行列のできる事業所になり1年待ちの利用者が出た。良き仲間、良き友、良き先輩に恵まれて出来たことだ。その時の事業は今でも斬新だと自負する。だが、○○○組がなければ結果は出せない。そして、何より大事なのは認めてくれる園長がいなければ出来ない。中途半端は事業を歪ませる。①聴診器の温かさ、②最後は俺が責任を取る...の深く心強いかさ、③スタッフへのあたたかさに包まれていた。組織は1人で出来るものではなく、しっかりとしたラインと、実力を備えたスタッフによって出来ると学んだ。