日記
黒崎ホームの施設長・課長日記
夏の夜の出来事(黒崎ホーム 課長 髙橋克之)
世の中色々な派閥があります。有名なところではタケノコの形をしたお菓子ときのこの形をしたおかしや赤いカップ麺と緑のカップ麺など。動物界では「犬派?猫派?」等という話も良く聞くところですね。我が家には、そんな有名派閥の一角である猫がいます。
さて、それはある夜の出来事です。リビングでのんびりしていると2階から勢いよく猫が駆け下りてきました。その事自体は珍しい事でもないので、特に注目していなかったのですが、こっちを見ながら妙に短く「にゃっ、にゃっ」と鳴きだしました。どうしたことか、と目を向けてまず目に飛び込んで来たのはピチピチと跳ねている細長い物体でした。そして、猫を見ると前足でトカゲを押さえつけてどや顔をしていたのです。その時脳裏に浮かんだのは「こんな漫画みたいな事があるんだな」でした。
まだ小学生の頃、トカゲハンターと称してトカゲの切れた尻尾をポリ袋に入れて友人と成果を競い合った事もある私ですが、年月を重ねた今となってはぞっとしました。恐る恐るトカゲを救出し、外へと逃がしてやりました。
昔の感覚と今の感覚が違う、という事は皆さんも思い当たる事が1つや2つはあるのではないでしょうか。人の心は変化をするものですね。そしてそれは今支援をしている利用者も同じではないでしょうか。過去を知る事はとても大切ですが、その過去に縛られない事も大切です。利用者の心に変化はないか、今一度確認をしてみてはいかがでしょうか。
表紙の写真は娘の描いたトカゲです。あっかんべーをしているとの事です。
波多江式インディアン的福祉論㉖(黒崎ホーム 施設長 波多江努)
部族は不明ですが、「こころからの言葉は 書物よりも尊い。」という言葉があるようです。
飽きもせず福祉的解釈をすると「個別性と権利擁護、学ぶ姿勢」ではないかと思います。
「こころからの言葉」は、支援者がどこまで利用者の想いや気持ちに近づこうとするか。そのためにどのようにかかわっていくかが問われている気がします。現在、支援をしている中にも藁をもつかむ思いで、利用者のこころからの言葉に近づこうとしている人たちも多いのではないでしょうか。 そのようなかかわり方が巡り巡って権利擁護的な支援につながっていくのだろうと信じています。
「書物よりも尊い」は書物が尊くないというわけではなく、支援の現場を通じ、迷う、調べる、工夫するなどのプロセスが重要であり、そのプロセスを整理してくれるのが、書物や第三者からのアドバイスであったりするのだろうと思います。
そのようなことを積み重ねながら、「師は教えることでまた学んでいる。」というソーク族の言葉につながるのだろうと思います。この場合の「師」は利用者も支援者も該当しますね。
「(将来の夢)インディアンになる」にはもっと修業が必要だ...。
自分で作ったものはオリジナルロゴマークを刻印しています。
「普通の事」(黒崎ホーム 課長 髙橋克之)
4月より黒崎ホーム支援課長として任命されました髙橋克之と申します。利用者の皆さんの支援や、働いているスタッフの職場環境の向上に努めていきたいと思っています。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
さて、皆さんは表紙の写真の食べ物をなんと呼びますか?
髙橋家では「てんぷら」と呼んでおり、僕にとってはそれが普通でした。"さつま揚げ"という名前は関東に引っ越してきてしばらくしてから知ったものです。
引っ越したばかりの頃、おでんの具の話などを友人としていて「てんぷらが好き!」「えっ?おでんに天ぷら入れるの?」と話がかみ合わなかったのは懐かしい思い出です。
場所が変われば"普通"も変わる。4月を超えて落ち着いてきた今、普通のすり合わせをしてみるとよりチーム力や支援力が深まるかもしれませんね。
波多江式インディアン的福祉論㉕(番外編) 「無念。 ジャコパスにはなれず。」 (黒崎ホーム 施設長 波多江努)
20年以上前に購入したフェンダージャパンのJB-75という愛器だ。
かなり愛着のある楽器だが、些細なきっかけで、改造に挑戦することにした。
モデルしたのは、ジャズやフュージョンなどで活躍し、35歳の若さでこの世を去ったベースの神様「ジャコパストリアス」。
木目を強調するため、プラスチック部品を外し、フレットという指で押さえて音程を調整しやすくするための金具を外し、パテ埋めし、フレットレスベースに改造した。
マスキングしたものの、パテがはみ出て、修復不可能(泣)
必死な思いで組みなおし、 一応演奏できる状態にはなったものの、全体のバランスが絶妙に悪い。
そして何より、パンクロックやヘビーメタルばかりで、ジャズやフュージョンは演奏したことがなかったことを忘れていた。
結局、楽器も技術もジャコパストリアスになることはできなかった(大泣)
この先の人生もやはりヘビーメタルと生きていくことを再確認した50歳の春でした。