「第31回 やさしい時代」(湘南あおぞら・倉重 達也)

 前回は、いつになったら本番がくるのか、いつまでも次が本番、今は練習、というつもりでやっていると、いつしか、それも本人にとって突然に人生の最後の時を迎えることになってしまうのではないかということを漠然とした危惧を感じながら書きました。

 

 それと似たような意味で最近、時代が平和なせいか「やさしい時代」になったと感じることがあります。

 ひとつはコンサートなどで、それも堅苦しいクラシック音楽のリサイタルなども含めて、曲の合間に演奏者がコメントを入れることが多くなった気がするということです。曲の解説であったり、演奏者のよもやま話であったりします。そのことによって、観客との距離が縮まって、演奏者との一体感が強まると言う効果もあるのでしょうが、何か、やわな感じがしてしまう。わかり易くなって、知識は増えた気はするのですが、感動は薄くなっていくような気がします。

この感じは、険しい路を、汗をかきながら頂上まで登っていた山に、手軽なロープウエィができて簡単に登れるようになった事情にも通じていると思います。頂上から見る素晴らしい景色は同じはずなのに何故か満足感がすくない。お金さえ出せば楽をして目的を達成できるようになった報いなのでしょうか。

何か「王様の退屈」にも似ています。

 

 ふたつ目は、テレビなどでやたらに舞台裏を見せることです。ひとつのドラマないしは公演などがあって、その制作過程を、涙と共に見せる。そしてそちらのほうが面白い、などということのほうが多くなってきました。

 常に誰かに努力の過程を見てもらっていないと事を進めることができない。いわば親の庇護のもとにいる子どもの世界ですね。結果が出なくても努力の過程だけで評価(誉めて)されてしまうと、目的に向かって苦しくても努力しようという芽を摘んでします。惜しかったね、と言われて満足してしまう風潮が広がりはしないかと懸念してしまいます。

 

 平和な時代であるからこそ、時には「崖っぷち」という状況を自ら作り出してチャレンジしてみたいものだと思います。

 

以上

第31回写真.jpg

▲「優雅な白鳥も水面下では・・・」

 

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