日記

自発的隷従~「法人実践報告会」に向けて

長期政権が変わる頃、気になる記事を読んだ。「隷従に慣れすぎていないか」と「自発的隷従が支える圧政」。"長期政権を支えるのは自発的隷従"の論説は哲学者西谷修氏。自由のはずなのに無力感を感じる時代を隷従に慣れすぎていると評す政治学者豊永郁子氏。"隷従"?と考え込む。"隷"は奴隷、"従"は従う。辞書には「付き従い言いなりになること。隷属」。従順や素直より強く就き従うことにどうして"自発的"や"慣れすぎ"が付くか判らない。自分から隷属する?自分から従うとは賛同したからではないか...。隷従...?

 西谷氏は歴史をひも解き"圧政は支配者自身が持つ力ではなく、支配に自ら服従する者たちが加担することで支えられる―。""追従者たちは、圧政者の言葉、声、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えを知るために自分の眼、足、手をいつでも動かせるように整えておかなければならない"と。また、豊永氏は、日本人は"奴隷になるものかと言う心情がぴんと来ないかもしれない..."と言いつつ、警官による黒人への暴行、ハリウッド女優たちの性暴力の告発など現在だけでなく過去にさかのぼる白人支配、男性支配の告発に踏み込む。そこにあるのは"二度と奴隷にならないという怒り"だと。

 最近、"どう考えたか?"の回答率が非常に低い。正解がある問いは調べながらも答えを探すが、考え方の問いには困惑するようだ。正解のない問いは判断できない...。でも何か感じたでしょう...と思うが、感情を言語化するのは苦手なの?

たとえば教室の教師は絶対的権力者。教師の"問"は解答しなければならず間違いは許されない。だから自らの感情を吐露しろと言う権力者=先生の"答"を忖度してしまう。突飛な反応は許されない。こうなると正解のない問いは難しい。教室は「模擬社会」。だから幼稚園から大学卒業まで、長きにわたる教室暮らしで確実に忖度を覚える。見えなければ失点しないが、見える、いや見えちゃったら"内申"が下がり命を絶たれる思いだ。中学の卒業式直前に遅刻し"お前なんか、高校入学取り消しだ!"と先生に怒鳴られた。構内の売店が行列で間に合わなかった。"出来るものならやれば!"。既に兄たちが教員だったから出来ないと知っていた。でも、多くの生徒はその言葉で愕然とする。これだけ長く"自発的隷従"を強いられれば、自らが感じ、考える前に先生(大人)の思考を忖度することが身に就く。しかも偏差値教育では思考力より記憶力で獲得した"知識"が問われるため"考えを訊かせて..."は唐突。それが"自由なはずが無力感"につながる。そして子どものストレス過多に加担する。

 だが、自発的隷従が教室より強烈なのが社会福祉施設。しかも、障害が要因で発言力が弱い障害者はいっそう問題。「働き始めた当初、すれ違いざまに入所者へ軽い暴力をふる職員がいた。植松が同僚らに『暴力は良くない』と伝えると、『最初だからそう思うよね』『23年後に同じことが言えるかな(『やまゆり事件』P83、神奈川新聞社取材班著、幻冬舎)』」とあった。日常はこうして変化し、非日常となり、やがて日常化する。だとしたら私たちは彼らにどう応えるべきか?本当の意思(自己)決定支援はどうすれば可能なのか?(2020.11)