日記

「ヤングケアラー」

最近"ヤングケアラー"とよく聞く。少し前は"老々介護""遠距離介護"だった。"老々介護"は、高齢者が高齢者を介護する問題。高齢者はそれだけで介護すべき対象と社会が捉えていた頃だ。背景に財政事情をちらつかせつつ、定年延長≒年金支給年齢延長、健康老人の社会的活動がニュースになると聞かなくなった。今は当時より深刻な問題が内在...。"遠距離介護"は、元都知事の『母に襁褓をあてるとき』が売れた頃。ケアは日常の問題なのに遠距離...。ケアを必要とする時のタイミングは計れるの...、など不思議だったが、1日使われなかった電気ポットからメールが届く商品が開発されたニュースを聞き理解した。また転居等で友達を失うなど社会的関係の希薄さが課題視され"遠距離介護"もうなずけた。だが、当時もヤングケアラーはいた。父が病に伏せた時、発作が心配で夜間も誰かが一緒にいた。小6、中1の長期休みは、交代で夜中にトランプなどをして父の気を紛らわすお供だった。もちろん、学校に行けないほど追い詰められていないが、親のケアは当然だった。しかし、今のヤングケアラーは常態化した問題。学校に行けない・・・、授業中眠たい・・・、宿題も出来ない・・・など。

 『ヤングケアラー わたしの語り(生活書院、渋谷智子編)』が昨年出版された。7人の体験談だ。難病の母を看た女性は「自主的に母と向き合うという選択をしている。その選択をした今の貴方を、未来のあなたは誇りに思っている。<P41>」と。彼女は大学進学を断念した。精神疾患の母に翻弄された男性。両親が視覚障害者ゆえ幼児期から通訳を担ったコーダ(※)。障害のある妹がいる女性は、すべてが妹の様子で決まる日常で自分を見失いそうになりながら母の頑張りに応じ努力した日々を綴る。また、認知症になった祖母の介護を母から迫られた女性は「"家族は協力!おうちのお手伝いをして偉いね"とまわりの人たちから美談にされ、SOSを出せずにいるのではないでしょうか<P164>」と。編者の成蹊大学文学部教授の澁谷智子氏は、ヤングケアラーを 「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子ども」と定義。

 学生時代、講座「社会問題」で非行少年の傾向を聞き驚愕した。今は不快用語だが‟欠損家庭(現:ひとり親家庭)に多い"。中1で父が他界したので"俺だ!"と思った。単なる傾向だが、「社会の理解」や「公共政策と福祉」の講座を担当する時、気になった。それらをひっくるめて新たな社会福祉領域だと考えついたのは"当事者"は多様だということ。サービスを必要とする本人だけでなく周辺で暮らす家族等の問題を見るようになった。50年前、社会福祉は入所施設だけ。しかし、現代は地域で暮らすためのサービスが増加し、周辺のニーズが認められた。しかもそれを求める人の多くが"もの言えぬ人"。障害者基本法では障害とは"症状固定"が前提条件。つまり恒常的にサービスを必要とする人。その周辺の人たちが社会の課題として発見されるまでにボディブローのようにじわじわと効く""がある。日々の支援でこの"苦"を感じているか、どう"応じて"いるか・・・。(2021.7)

   ※コーダ:聴覚障害者を親に持つ健聴の子どもを意味する。