日記

テレビ桟敷のオリンピック

五輪開催時に緊急事態宣言の地域が拡大された。"五輪をやるから気が緩む"や"庶民だけ自粛なんて"などの発言に苦虫をつぶす。選手たちは、入国時や毎日の検査、そして行動制限で外出もままならない。無断で東京タワー見物をした選手がIDカードをはく奪された。細心の注意を払う環境でがんばる選手を見ていない。それなのに訳の判らない理屈で恥ずかしげもなく許されようとする。そこでテレビ桟敷の五輪だが、チャンネルをひねりさえすれば複数競技を同時観戦でき、寝る頃には緊迫したゲームでぐったり。

 無観客のため歓声は少なかったが、試合中の選手や監督の声が生々しく臨場感が凄い。客席の関係者から歓声があがり臨場感がさらに増した。それでもお国柄があり、国情を反映した姿を見る。聞きなれないROCが活躍した。組織的ドーピング問題で、国として参加出来ず救済措置でロシアオリンピック委員会として出場。選手に過誤はないと納得。だが、国歌が問題でチャイコフスキーに治まった。かつて、有森裕子が連続メダルを獲得した時、金の選手は"国家のため"、銀は"家族のため"、そして有森は"自分で自分をほめてやりたい!"と。金はエチオピアで国威発揚、銀はロシア。ソ連からロシアに変わったばかりのお国事情が表れたと記憶に残る。

 今回は、日本のメダル獲得種目の変化が象徴的に見えた。スケートボードやサーフィンなど若者が活躍する姿に年寄りには五輪か?と思えた。古典的な競技と新たな文化が定着したスポーツが混在し、多くがプロ選手。前回の東京五輪ではプロは参加出来なかった。当時のIOC会長は国歌斉唱の廃止を検討していたと聞いた。見ていると日本名の外国代表や外国名の日本選手、他国でコーチや監督として活躍した人々など、どの国にも多様なルーツを持つ選手がいると判った。また、人種差別等への抗議行動もこれまでと異なり一部認められ表明された。"国"のワクを超えた人たちを見て、国威発揚、国家威信ではなく平和な地球、未来の創造を垣間見て世界の粋を集めた平和の祭典になりつつあると感じた。

 それにしても勝負は非情で、嬉し涙も悔し涙も見た。池江選手の努力は素晴らしく大病の末回復し1年の延期が間に合わせた。だがピークにいた選手は調整が難しかったようだ。スキャンダルが報道された選手の予選落ちに人間性が勝負を分けた...と思ったが、バドミントン女子ダブルスなど世界の頂点と言われながらメダルに届かなかった姿がトップを維持する難しさを表した。新型コロナウイルスによる1年が勝敗を分けた選手は確かにいた

 一方で、競技種目の変遷は国力や国民の興味関心に多大な影響があった。前回の東京五輪は、柔道、レスリングなど格闘技が華やかで、チーム戦は女子バレーが記憶に残るが、今回はバスケやサッカー、野球などのプロ選手の話題が華やか。また、フェンシングやアーチェリー等これまでなじみのない競技、新種目での躍動などが時代の変化とグローバル社会を印象つけた。オリンピックは国力がもの言うようで、ボイコットされたモスクワ五輪など政治に翻弄された歴史を持つ。その中でコロナが世界に蔓延する今の世界をのぞかせた。コロナ禍での五輪を歴史はどう評価するのか?それはしばらくの時間の経過が必要だ。それにしても、悲喜こもごもの五輪だった。