日記

「ドラマに"フクシ"をみる~社会的スケールを考える」

 放送中のドラマに『となりのチカラ』がある。お隣さんの諸問題に主人公のチカラがあれこれと首を突っ込む。近頃珍しいおせっかいだが、どこにでもありそうな話しが"フクシ"のトレンド。心配な親子...これは「子ども虐待」???認知症の祖母と暮らす高校生。それは「ヤングケアラー」や「認知症ケア」。また、外国人数人で暮す部屋に日々異なる男性が出入り。介護福祉士の資格を取ろうと入国後、何らかの理由で働けなくなりマッサージの営業。これは「外国人労働者」の雇用環境や地域福祉の問題。表面的ではあるが、日常の中にある社会福祉の課題が山積している現代を表す。

昨年暮れに終わった『ヤンキーと白杖ガール』。原作はマンガだそうだ。弱視女性とヤンキーの話だが、ドラマの中で自称、視覚障害者の芸人が暮らしにくさを説明。ヒロインは後天的な弱視、盲学校の友達は先天的で視力ゼロ。一方にヤンキーの生い立ち。幼い頃に親が行方不明、暴力で強さを示すことが生き残るすべになった。これは「社会的養護」。なぜ児童相談所が介入しなかったのかと考えるのは業界にいたからだからだろうか...。

社会的養護のドラマはきれいごとが多い。それは社会が十分理解出来ていないからだと思っていたが、2014年の『明日、ママがいない』は本質をついていた。ところが突然CMが中止。児童養護施設団体から「イメージダウンになる、真実と異なる」と苦情がありスポンサーがすべて降りた。だが、職員の高圧的な態度と裏にある苦渋の心情。養子縁組を求める子どもと、それを斜に構えて見る子どもの姿は現実だと思った。芦田愛菜、鈴木梨央など、子役の好演は施設で暮らす子どものゆらぐ心を見せた。窮地での一致団結も。どうして施設団体は反対したのか...。たとえば、裁判官が突飛な言動をとる『イチケイのカラス』に裁判所からクレームはない。警察の失態をドラマ化しても警察庁から注文はない。たかがドラマ、フィクションだと流すのだろう。そうであれば"フクシ"は...。

施設育ちのその後の話しが、今放送中の『ファイトソング』。今国会で審議中の問題"フェアスタート""アフターケア"を表す。だが、園長はここまで卒園生に関与出来ない。特別な子への特別な配慮を描くと真実をはぐらかしかねない。ヒロインは聴力障害を予測される病にかかる。中途障害の女性がヒロインの未来を表す。先天的な聴覚障害は、言葉を聞いたことがないため発音がとても難しい。中途の場合は聞いていたので先天性より発音しやすい。しかし、次第に忘れるので時間とともに発音が悪くなるそうだ。だから鮮明な発音の会話は違和感を覚えるが...。

社会福祉の従事者は"善意の人"と見る社会。他方"障害者だから..."と出来ないことを前提に見る社会。しかし、誰もが"人"として社会で暮す。そこに人としての"尊厳"がある。だが、障害者は守られるべき存在とするステレオタイプな誤解、それに便乗しやすい環境がある。それでも原点は"個の尊厳"それは守ってあげるのではなく、その人らしく生きること。だから(福)藤沢育成会は「インクルージョンふじさわ」と「それぞれのマイライフ」を志向している。それ故"社会的スケール"のある支援を【意思】をもって進めたい。