日記

2022年09月の理事長日記

"収める鞘を持たないケンカは負けだよ!"

 学生時代お世話になった人が上司になった。仕事に特別の注文はなく、穏やかな日々が続いた。終戦直後、柔道着と竹刀だけ持って上京。戦後の浮浪児を収容(当時の言葉)する仕事に就いた。当時は食糧事情が悪く、"孤児院(現:児童養護施設)"ではなおさら!子どもたちが肉を食べたいと訴えたが金がない。しかたなく赤犬なら大丈夫と...食べたという。また、風呂に使うマキが足りず枕木を取りに行ったと笑う。眉唾じゃないか...、イヤそうしなければ生きられなかった...?そんな逸話で周囲を笑わせるところがあったので信ぴょう性は不明。また、「保母試験」の採点で児童相談所について"児童の相談する所"の回答に"△"。間違いじゃないかと聞くと、間違ってはいないと。そうだけど...、二の句がつけなかった。

 ある日、職場近くの飲み屋で話しをしていると店主がつまみを1品多くだした。"よく頑張っているってね""ええ?""よく来てくれるんだよ""誰?""課長さん!""そう?""息子のことで世話になってね!良い人だね!""そうですか..."。施設に相当好感をもっている。歓送迎会で仕出し屋に予約すると予定をやりくりしてくれた。当日、店に伺うと"課長さんは?""後から来ますけど、どうして?""いやぁ、本当にお世話になっているんだ!""良い人だよね!"。どこでも課長さん、課長さんと言われるのに1年いらなかった。床屋、八百屋..."課長さんは?"と。自分の時間を使い街の人と話し仲良くなり、地域の社会資源を利用し、街に溶け込んだ。剣道4段、柔道も有段者。見事な筆使いで文字を書き、得意がることもなく自然体。しかし、酒が入ると下ネタも混ざり周囲を和ませた。恐妻家だというが早く帰宅する様子もなく、夜な夜な酒を飲んでは人々を和ませた。地域との関係が増え、施設に好感を持って頂き、街との接点が変わり挨拶を交わすようになった。

 ある日、成人した利用者の母親と相談し、自宅から通所すると決まった人がいたが、保母長(今はない役職)が母親と話し"心配..."と。母の心配に配慮しそれも含めて相談してきた。頭越しの行為に憤りを覚えた。方向性が間違っているとも思えなかった。相当な怒りの中、問いただした。礼儀を失しないようにと思っていたが後から思えば問い詰めるようだった。答弁はしどろもどろ...。その時「○○ちゃん、収める鞘を持たないケンカは負けだよ!」と声がかかった。続けて巌流島の話。拍子抜けしたが、佐々木小次郎が刀を振りかざす時、鞘を捨てた。剣豪宮本武蔵が勝利したのは、そのすきを見抜いたからだという。

 若さゆえ、怒りに任せて訴え続けたことをさらりと諫めた言葉が忘れられない。人と人の関係は、どうしてもどこかで対立を生む。何となく気まずいこともある。どんなに正しくとも相手を非難し続けてはいけない。頃合いを見つけることを"鞘を持つ" ...と。その直後、保母長が非を認めた。だが、実に後味が悪い。この後味の悪さを何度味わっただろう...。老いてなお我が身を収められないと振り返る。一方、怒りはエネルギーであり、失うとうつろな目になる恐れを抱く。人間は本当に難しい。生きるに差し支えないことに怒りを覚えないが、物事の重要性が増すごとに怒りを覚える。穏やかな人柄、大胆な振る舞い、ひょうひょうとした仕事ぶりが心に残る。それにしても"収める鞘を持つ"のは難しい...。

「理論値」と「臨床値」

 大卒後の進路相談で兄から「社会福祉は実践科学じゃないのか?」と、問い返されたことを時折思い出す。大学入学時の「社会福祉学研究会」入部レポートで"車の両輪のように理論と実践が伴って社会福祉・・・"と書いた。研究者になろうなどと思っていなかったが"親切"が社会福祉だとも、"善意"が社会福祉だとも思っていなかった。困っている人の役に立つことは、する側の勝手だから違うと思っていた。だから、世間から見ると"親切な人""優しい人"と言われることが嫌だった。

 社会福祉制度はどこまで充実すべきかが難しい。困っている人を助けてあげる...と言う考えが好きではない。困っている人が生来の怠け者だったら助けて良いか・・・?『善意で貧困はなくせるのか?(みすず書房 D・カーラン&J・アペル著)』の冒頭に、僧侶が漁師から魚を買い取り海に戻した行為は正しいか...と。わずかな魚を海に返し"殺生はいけません"の教えを守ったことになるのか...?人は動植物の命をいただき生きている...?やらないよりやった方が良い...?突き詰めると"優しさ"が判らなくなる。神奈川県立保健福祉大学名誉学長・阿部志郎先生の"しさとは、うと書く"の言葉の深さを想う。

 社会福祉の始まりが"優しさ≒善意"なら、善意で問題解決できますか...と。それでは問題解決が難しい現実がある。しかし、善意から始まる...。だから、何かを加えないと解決のエネルギーが生れない。必要なのは"その善意、本当に役にたっていますか?"の問い。的確であれば良いが、してあげたい...では成立しない。だから"人を憂う..."の奥が深い。その人が判らないと善意が意味を持たない。「虐待としつけの狭間」は"しつけ"と考えている。接頭語"お"をつけると丁寧語。丁寧な善意は押し付けで虐待の始まり...という皮肉。だから"困り事"の構造が判らないと人を"憂う"ことにならず、困っている人の問題解決が出来ない。助けたと思った人を混乱に追いやったり、出来ることをしてもらっても良いと学ぶ...。だから本当に困ったことが判らないと優しく出来ない。でも、同じことを困っているAさんとBさんに同様に援助すると、Aさんは喜んでもBさんが喜ぶとは限らない。なぜなら、AさんとBさんでは居住環境や家族事情などが違うから。だからいつも答が変化する。また、今困っていても明日になるとまた変わることもある。

 考えてみると、個別な事情に全てフィットする制度を作るのは困難。だから、制度に当てはめるだけでは解決しない。故にケースワークがある。ケースワークは個別の課題を解決する糸口を一緒に考える技法。他にも社会福祉の技術がある。地域社会や、家族、その人自身の問題等を考えながら的確に、合理的、論理的に糸口を見つける。だから選びきれないほどバリエーションがあり複雑怪奇。そのため問題を整理する基礎知識が必要。さらに"出来る・出来ない"を理解する。だからソーシャルワーク技術がないとアプローチが難しい。これが「理論値」。でもそれだけだとサービスに当てはめようとする。人に添うために藤沢育成会では"それぞれのマイライフ"と言う。その人に合う方法を一緒に考えるのが「臨床値」どっちがなくても、どちらかが強くても、優しさがあだになりかねない。理論値を臨床値に置き換えられる力量のある人が社会福祉の専門職だと思う。