日記

「理論値」と「臨床値」

 大卒後の進路相談で兄から「社会福祉は実践科学じゃないのか?」と、問い返されたことを時折思い出す。大学入学時の「社会福祉学研究会」入部レポートで"車の両輪のように理論と実践が伴って社会福祉・・・"と書いた。研究者になろうなどと思っていなかったが"親切"が社会福祉だとも、"善意"が社会福祉だとも思っていなかった。困っている人の役に立つことは、する側の勝手だから違うと思っていた。だから、世間から見ると"親切な人""優しい人"と言われることが嫌だった。

 社会福祉制度はどこまで充実すべきかが難しい。困っている人を助けてあげる...と言う考えが好きではない。困っている人が生来の怠け者だったら助けて良いか・・・?『善意で貧困はなくせるのか?(みすず書房 D・カーラン&J・アペル著)』の冒頭に、僧侶が漁師から魚を買い取り海に戻した行為は正しいか...と。わずかな魚を海に返し"殺生はいけません"の教えを守ったことになるのか...?人は動植物の命をいただき生きている...?やらないよりやった方が良い...?突き詰めると"優しさ"が判らなくなる。神奈川県立保健福祉大学名誉学長・阿部志郎先生の"しさとは、うと書く"の言葉の深さを想う。

 社会福祉の始まりが"優しさ≒善意"なら、善意で問題解決できますか...と。それでは問題解決が難しい現実がある。しかし、善意から始まる...。だから、何かを加えないと解決のエネルギーが生れない。必要なのは"その善意、本当に役にたっていますか?"の問い。的確であれば良いが、してあげたい...では成立しない。だから"人を憂う..."の奥が深い。その人が判らないと善意が意味を持たない。「虐待としつけの狭間」は"しつけ"と考えている。接頭語"お"をつけると丁寧語。丁寧な善意は押し付けで虐待の始まり...という皮肉。だから"困り事"の構造が判らないと人を"憂う"ことにならず、困っている人の問題解決が出来ない。助けたと思った人を混乱に追いやったり、出来ることをしてもらっても良いと学ぶ...。だから本当に困ったことが判らないと優しく出来ない。でも、同じことを困っているAさんとBさんに同様に援助すると、Aさんは喜んでもBさんが喜ぶとは限らない。なぜなら、AさんとBさんでは居住環境や家族事情などが違うから。だからいつも答が変化する。また、今困っていても明日になるとまた変わることもある。

 考えてみると、個別な事情に全てフィットする制度を作るのは困難。だから、制度に当てはめるだけでは解決しない。故にケースワークがある。ケースワークは個別の課題を解決する糸口を一緒に考える技法。他にも社会福祉の技術がある。地域社会や、家族、その人自身の問題等を考えながら的確に、合理的、論理的に糸口を見つける。だから選びきれないほどバリエーションがあり複雑怪奇。そのため問題を整理する基礎知識が必要。さらに"出来る・出来ない"を理解する。だからソーシャルワーク技術がないとアプローチが難しい。これが「理論値」。でもそれだけだとサービスに当てはめようとする。人に添うために藤沢育成会では"それぞれのマイライフ"と言う。その人に合う方法を一緒に考えるのが「臨床値」どっちがなくても、どちらかが強くても、優しさがあだになりかねない。理論値を臨床値に置き換えられる力量のある人が社会福祉の専門職だと思う。