日記

"あぁ~、やっぱり...ぶつかったか!"

逸話の多い人だった。少々酒が入った帰宅時に検問に合うと"○○はこっちですか、急患です!"とあわてた様子を見せれば大丈夫...と。講演会で"はしかやおたふくはどんどんうつしてもらいなさい。"と。極秘事項としつつ人事の話をした後"人事ほど面白い仕事はない"と。だが、園長室で専門書を読み新たな医学知識吸収に余念がない。団体交渉では最前線に立ち、はぐらかすような論議でマイペースに。誰もが愛してやまないキャラクター。仕事でのチャレンジ精神を教えてくれた親父のような存在。還暦時に奥様同伴でお祝いをした。訃報を聞くと元同僚の声に押され「追悼の会」を開いたら100人を超えた。

 出会いは「重心訪問」。在宅重症心身障害児を訪問してアドバイス。担当は早めに診察して次に行きたいが雑談から始まる。診察を始めると親が上げた服をおろし聴診器を入れた。聴診器は雑談中に握りしめ温めていた。身体が弱い人への配慮だ。こんな医師を見たことがなかった。熱いものが流れた。翌年、転勤先の園長に着任。赴任初日、施設の犬に吠えられた。"君は吠えられなかったが、僕は吠えられた。歓迎のされ方が違うな"と戯言。翌年、地域サービス開始と同時に困難ケースが次々と来た。その時、障害受容が難しい母親が低学年の女子と相談来所。壁に激しい頭突き、自傷で髪が擦り切れてなくなるほど頭部をたたき続けていた。主治医からヘッドギア装着を指示された。生活寮は従ったが、面接時"それを着けるなら2度と連れて帰りません!"と拒否宣言!少しでも緩和策がないかと医師に相談した。少しでも親子関係を修復するためだったが"私(医師)の指示が聞けないの!""命が一番です!"と一蹴。それでも食い下がり、緩和策を講じたかったが決裂!

 翌日、園長から呼び出し。昨日の様子が医師仲間から伝わっていた。おしかり覚悟で入室するとニコニコ顔。ヒステリックな医師の性格を承知で"やっぱり...ぶつかったか!""やりたいようにやりなさい"。拍子抜けした。"しがない公務員には無理!俺が責任取るから思いっきりやってこい!"。また"やりたかったら、きちんと説明しろ!"と言われ続けアイディアや工夫を聞き入れてくれた。組織にはない意見交換の場"プレ寮長会議"を始めると、時折その場の意見を聴いていた。職員の意思を尊重しなさい!と言われている気がした。次第に前向きに仕事に励む職員が増えるのを実感した。

 児童相談所を3年で転勤と告げられた時はこの世の終わりに思えたが、その後の5年は一番充実し思い出深い仕事だった。この時代の障害者は一生施設生活だったが、藤沢や横浜で親たちが「地域作業所」を作り、グループホームを始めた頃の地域サービスのソーシャルワーカー経験は、障害福祉への想いを確固たるものにした。○○○組と言われ、行列のできる事業所になり1年待ちの利用者が出た。良き仲間、良き友、良き先輩に恵まれて出来たことだ。その時の事業は今でも斬新だと自負する。だが、○○○組がなければ結果は出せない。そして、何より大事なのは認めてくれる園長がいなければ出来ない。中途半端は事業を歪ませる。①聴診器の温かさ、②最後は俺が責任を取る...の深く心強いかさ、③スタッフへのあたたかさに包まれていた。組織は1人で出来るものではなく、しっかりとしたラインと、実力を備えたスタッフによって出来ると学んだ。