日記

"チームを創る"から「チームが出来る」に

 長い職場体験でも"ここは素晴らしい!"と思うことは少ない。もちろん、一生懸命努力するが、空回りしたり、お先走りがひどかったり、後手・後手に回るなど嫌気がさす経験をした。だが、行く前は嫌だったが赴任すると驚く仕事ができる時がある。そこにはいつも素晴らしい仲間がお互いを尊重しあう日常があった。だから意識してチームを創るのではなく、結果的にチームが出来る!初めての体感は"地域がない場だけどやってごらん"と言われた地域サービス。前年から準備に入ったのは自分だけ。研修と地域サービスが担当だった。スタッフが3人と判った時は愕然!出来ないと思った。当時は地域サービスが理解されてなかった。初年度3人で日中活動(現:生活介護)も担当。壊滅的でもやらざるを得ない。利用者に迷惑はかけられないので適当に若い職員に任せることは考えなかった。当然、業務が多く飽和状態。いつまでも事業の準備が整わなかった。それでも優先順位を決め始めると、少しずつ周囲の理解が深まり協力し合って軌道に乗り始めた。

 驚いたのは、この先の動き。同じ課のもう一方のグループが、時間を割いて協力してくれた。残業だが誰も拒否しなかった。すると、翌年から事業に専念する環境が整った。時間が確保出来るとオーダーが増えた。事業を利用した家族から他家族へ口コミで伝わった。質をリードしたのは相棒。専門領域からの"見立て"は説得力があった。同職種の若手職員の仕事の質が向上した。さらに事業を受け入れなかった居住職員から、担当になりたいとの希望が届く。SW(ソーシャルワーカー)は1人だから、SW面接以外は居住担当にお願いすることが勉強になったとのこと。やりたい気持が施設全体に生まれると生活寮から利用依頼が来た。そんな時、対象地域以外の人が利用した報告。緊急時、やむを得ないが制度的には不可。事情を説明し困ると話すと"それを何とかするのがあんたの仕事でしょ!"と!児童相談所と協議し綱渡り的対応でしのいだ。もはや園全体が"チーム○○○"となった。これを維持するため情報は出来るだけ早く流した。特に親面接は、情報の齟齬が家族との関係を崩すので、夜自宅で面接記録を書き、朝一番に担当に渡した。居住棟からも同様だった。

 もう一つはチームの責任者だった時。正直言って怖かった!務まらない...と不安だった。1年経った頃、辞めたいと職員に漏らした。"今やめたらこれまではなんだったのか!"と。転職は逃げと思い返した。彼は決して前に出ようとしないが、確実にフォローしてくれた。とても安心感があった。他にあと3人。一歩前を歩く人。正しさを探求する人。結果を出す道を探る人。4人は責任者を支え陰に陽に働いた。一方で部下を指導し、叱咤し、励まし、支えた。忙しい職場で時に精神的につらくなる人がいた。その人のために恢復する道を探りどう環境を整えるか腐心した。一方で非常勤の人たちにも気を使ってチームを作り上げた。もちろん、出来ないことも、あきらめたこともあった。でも、若者たちのアイディアを活かし、上席者と調整して成し遂げた。いつしか"チーム□□"と呼ばれ周囲からもチーム力が認められた。出来上がったものを当時の県立大学阿部志郎学長から「△長が怠慢を決めたから出来たものですね。素晴らしい!」とお褒めをいただいた。最高のほめ言葉だった。素晴らしいチームの一員でいられたことに感謝している。(2023.2月②)