日記

理事長日記

"職人的"児童指導員

初めての職場は県内最初の知的障害児入所施設だった。当時、施設利用は大変だった。それは社会資源がなかったから。鍵の束を持たないと施設内を歩けないほど鍵がかかっていた。"動く重心"と呼ばれていた多動児がいたので、重度棟と呼ばれていた場所では、鍵をかけていた。初めての時"安全を確保し、自由に動ける大切な場"と説明された。なるほど自ら危険を回避出来ない。しかし、四六時中ついていることも出来ない。そこで居場所を確保するための苦肉の策...と納得した。多動児はグラウンドに出ると一層多動になった。それは解き放たれた時の衝動だが、当時は分からなかった。説明してくれたのは初めての上司。気さくで明るく体を動かすことをいとわない人だった。

 日々の仕事が始まり1か月程の時、一般棟と呼ばれる比較的軽度の人たちが暮らす大食堂(100人弱)で食事量を示す掲示板の数字が遠くて見えず、配膳に苦労するので"数字をビニールテープで色分けしたら利用者も出来る"と提案した。すると机の引き出しからお金を出して"今すぐ必要なものを買ってこい!"。提案を受け入れてくれた上司に感謝して買物へ。今考えると、公金?ポケットマネー?それとも何??不思議な話だ。ただ、提案がその場で聞き入れられた事実だけが残って、その後の仕事ぶりに大いに影響を与えた。ギター、アコーディオンなんでも独学で学んだそうだ。子どもたちに絶大の人気があり、アコーディオンをもって姿を見せると自然に子どもが集まり、楽しそうに合唱が始まる。娯楽が少なかった当時、子どもたちとの接点を作り心の垣根を下げる手段として有効だった。自分も何かのツールを持ちたいと思ったが、にわか仕立てでは出来なかった。

 秋は行事が目白押し。その中核の運動会は毎年10月10日。前回の東京五輪開会式を記念した「体育の日」だった。毎年同じ日だったので、卒業生や親たちも来園した。飛び入り参加も出来る綱引きやパン食い競争、仮装行列があり準備に熱が入った。当時は行事以外にお楽しみとなる地域からのお誘いなどなかったから、家族まで力こぶが入っていた

前日、上司からグラウンドのライン引きを指示されたので、レイアウト等を参考に計測し、基点を作って下書きした。ようやく白線を半分ほど引き終わった時、様子を見に来た上司が"何やってんだ!まだ出来てないのか!しょうがねぇな!こんなの勘でやるんだ、勘で!"とライン引きを取り上げさっさと引き始めた。計測したラインは全く無視。腹が立ったが、仕方なく眺めていた。見事に出来上がっていくのだ。その速さは尋常じゃない。計測しないんだから早いに決まっている。アッと言う間の出来事に唖然としていると、ヒマラヤスギの小枝を20本ほど選び半円を描いているコーナーにほどよい間隔で刺し始めた。すると緑が映えてコーナーをくっきり示し目印になった。ただただ、お見事!出来上がるとさっさと立ち去った。ここに20年ほど働いた上司は、見なくても見えていた。仕事上の"勘"は誰も追随を許さなかった。それだけ存在感があった。今ならこの仕事のやり方は通用しないだろう。でも、したたかで、確実に仕上げてしまう上司を見ほれたのは確か。初めての施設でこのようなことを教わった。私の中の記憶は"職人的な仕事ぶり!"。だから、エキスパートとしての存在感は今も変わらず鮮明!

人はなぜひとを「ケア」するのか

ずいぶん前に『人はなぜひとを「ケア」するのか(岩波書店、佐藤幹夫著)』を読んだ。養護学校教員だった著者が父親を看取った時の思い出、葛藤・・・などから"どうして人を「ケア」するのか・・・"と問う。自らの老いを感じるようになったからか・・・。長く知的障害者とかかわったからか・・・。‟意思決定支援"と言れわ始めたからか・・・。既に50年もこの仕事に従事したのだから答えが出ても良さそうだが相変わらず言語化できない。この間、忘れられない出会いは一つや二つではない。だが、"意思決定支援"となれば、次のふたつを思い出す。"過保護"と"過干渉"。間違えないでほしいが、2人とも母親は本気で心配し必死で守ろうとしていた。家族も協力的で表面的にはなんで親子関係が問題なの...と思わせた。

A君は激しい自傷行為があった。頬を叩き続け結果的に鼓膜が破れるほどの自傷行為は初めての時驚きを隠せなかった。家族は叩かせまいと必死。手を握り続け、よだれは他の家族がふき取った。言語なし、ADL全面介助の最重度で思春期真っ盛り。だが、家族と離れたプレイルームでは自傷行為が見られない。面接後、心理担当と"過保護"と見立てた。一時入所すると全く自傷が見られない。A君からは見えないように母親に様子を見せると驚きを隠せなかった。面接を繰り返し家庭での対応を学び、母親中心に家から事業所通所が出来た。B君の場合は、当初の相談は弟の夜尿。それはB君の家庭内暴力が激しく暮らしが不安定だったことが原因だった。それでも排除せずB君の課題に取り組んだ。この時の仮説は"過干渉"。面談を繰り返すと母親が精一杯の努力で良い子にしようとしていた。だが、その時B君は思春期真っ盛り。賢い母親は強いやり方に気づき慟哭の時を迎えた。精一杯の努力で家庭からの通学を試みたが家族の状況もあって施設入所となった。

 問題はかかわりを持つ側≒ケアする側。人は生まれた時は全面介助。"第一次反抗期"を迎え様々にチャレンジし、失敗しつつ学びADL自立への道を歩む。次に"自分らしさ"を見出だそうともがき苦しむ"思春期"。訳の判らないモヤモヤは答えを見出だせないもがき、葛藤。障害ゆえ発信が弱くモヤモヤの表出が苦手。TEACCHプログラムのCはコミュニケーション。自閉症(A)やコミュニケーションが苦手な子ども(CH)のための教育(E)と治療(T:トリートメント)。人は成長と共に第二次性徴が始まり、モヤモヤが心的葛藤となり内包し深まる。だが、家族は発信力が弱く、ADLも未自立な子どもは幼児扱いから抜け出しにくい。一般的にも変化する子の発信にたじろぐ親がいるが、発信力が弱いと親は庇護の対象から抜け出しにくい。それゆえ幼児期と変わらない"ケア"を続ける。さらに様々な葛藤が親子関係、兄弟関係、その他のことも含めて問題を複雑にする。

 "ケア"とは、相手がだれであれその人の"意思"を聞くところから始まる。最近"高齢者は..."とよく耳にする気がする。一括りにされると自らの尊厳を侵害された気になる。ケアの最重要課題は"意思に添う"。"ケア"は"意思"を聞き取る力。あえて"意思決定支援"ということに専門職は恥じ入るべき...。なぜ人をケアするのか...の答(応)えのひとつにケアの相互性...コミュニケーションの質と量がある強度行動障害という現象ではなく、原因をコミュニケーション能力で探れるケアをしたい

"頭が先か?身体が先か?"それが問題だ!

 昔、昔、その昔、県職員になった、"福祉職"。辞令交付式は部局ごとだった。その場で赴任先を知らされるので業務内容は知らなかった。会場は若い女性たちが多い。多くの人たちが知り合いらしくおしゃべりに花が咲いていた。指定された席は最前列の中央。どぎまぎしながら座ると式典が始まった。順に呼ばれ辞令を受け取った。昼食後、指定の場に行くと先ほどの女性たちがバスに乗っていた。短大を卒業したばかりの保育士。バスの中に男は1人?躊躇していると中年の男性が「早く乗れ、出発するぞ」と促す。運転手とその人(副園長)だけが男性で24人乗りのバスに15名程。気後れして乗ったバスは卒業した中学校前を通り過ぎた。驚くことに赴任地は、自宅の徒歩圏で交通機関利用なし。

 翌日から赴任地での新採用研修。なんと1人。彼女たちは既に研修を済ませ、1人前の勤務。初日から夜勤の人もいた。研修内容は行政関係が多く良く判らないが、1人ゆえ逃げようもない。ひととおり終わると次は県の新採用研修。行政職と一緒。真新しい身分証明書に"事務吏員"。事務吏員なんだと初めて自覚した。故に研修は行政関係、内容は法律用語が飛び交い苦痛だった。それでも何とか終り児童指導員業務に就いた頃、指導員会議の招集。大勢の職員がいる職場なのに児童指導員は男性だけ。これは職域の相違。採用試験で保母(現:保育士)採用と福祉職採用に別れていた。研修も、会議もそれに従っていた。採用時に寮長の役割を担ったのもこれが理由とようやく理解する始末。これは過去の話で、今は採用制度が変わり、全員福祉職採用となり、経験を経て役割が変わる。

 初めての指導員会議は理解不能な議論だった。それが"頭が先か?身体が先か??"児童福祉施設だが、思春期を過ぎ成人年齢が多いため極力「同性介護(当時はこの言葉がなかった)」にしていたが、男性利用者60人に男性職員は係長を含めて7人。ゆえに入浴はとても大変。40人の男子寮担当で13時からの日中活動に入浴が組み込まれていた。だが、19時までの遅番勤務でも、当然のように勤務終了後に入浴担当があった。一般棟(比較的軽度)だがほとんどがIQ測定不能、発語のある人はわずか。身体を洗える人はほとんどいなかった。

会議のテーマは身体を洗う順番。どうでもいい・・・と思っていた。なぜこれに時間を割いているかが不思議だった。終了時、係長から「どう思った?」と訊かれ、どうでもいいとは答えられず困っていたら「職員同士でやり方が違うと子どもが混乱するんです。意思統一が大切です」と。分かったような、分からないような印象だったが、入浴介助を繰り返していると重要性が見えてきた。それは食事、日中活動、就寝時でも同様に徹底されていた。それでも、乱れる現実をその後繰り返し見た。こんな基礎も知らない人間を児童指導員として育てていただいたのがA先生。どこまでも"先生"だった。プロテスタント信者の先生は、早期退職し児童養護施設園長に。さらに大学教授となったが見守り続けていただき、社会福祉学会に誘っていただいた。また、所属大学以外の非常勤講師の依頼をいただくなどで幅を広げるチャンスを下さり、しっかりと育てていただいた。どこまでも誠実で、真摯で、継続し続ける姿勢、取り組みは、その後の仕事の根幹となった。めぐり逢い、チャンスをいただき、育てて下さったことに感謝。

「措置から契約へ」と言う意味

 20年ほど前「障害者自立支援法」が論議を誘った。次第に熱を帯びその後、数年で「障害者総合支援法」となった。論議の中心課題のひとつに「措置から契約へ」があった。措置は行政処分。契約は個人の意思が働くが、行政処分に意思は反映しない。そこで、当事者の意思を尊重するとし導入された。そこから"自己決定支援"が重視された。背景にはUCLAバークレー校でエド・ロバーツが始めた当事者の自活運動≒自立運動があり、どんなにサポートを受けても"自己決定、自己責任"だとの考え方の流れをくむ。県内では鈴木治郎理事長率いる「KILC」がある。それが現在の"意思決定支援"につながる。

 つまり「措置から契約へ」は、自らの"意思"に基づいたサービス保障。しかし、物事は表裏一体。縦から、横から、斜めから見れば、同じ景色が違う世界に見える。だが、最近は答えをひとつにしたがる。制度を創る行政から見ればそうなる。だが、答えをひとつに出来るか...。障害当事者の目線と行政の目線、そしてサービス提供者は同じ目線か...。制度を策定した行政側は、当事者にあまねくサービスがいきわたることが目的。障害者はより快適な生活のためにサービスを活用できる環境を求める。そこでサービス事業者の視点を考えなおすと、当事者と同じ目線で考えているようで変化が見えない。

 サービス事業者は「措置から契約へ」で何が出来たか?どう努力したか?何を変えたか?結局、何も変わっていない。放課後等デイサービスで夜遅くまで展開すれば残業前提で働く親に選ばれる。しかし、子どもの福祉は...?いや、現代は"子ども家庭福祉"。それは"子ども"と"家庭"の状況におりあわなければならない。では、放課後等デイサービスはどう"おりあう"か?それゆえ社会の変化の中で"選ばれるサービス"がある。サービス事業者は子どもと家庭の福祉を考え合わせた展開が求められる。選ばれることと子どもの福祉のせめぎあいに苦慮し、おりあいをつけたサービス展開をする。選ばれるだけなら家族の求めに応じればよいが、それではミッションを忘れた社会福祉と言えないか...。このジレンマがすべてのサービス展開にある...。だから「措置から契約へ」の真意はサービス提供者に重い課題を突き付けている。それは理念的な"価値"と、選ばれる"価値"のせめぎあい。両者がアンビバレント(両価性)なのだ。

 当事者はまだ本当の「措置から契約へ」を享受していない。なぜなら措置時代と変わらないサービスを選ばざるを得ないから。たとえば、10時頃から始まるサービスは当り前か?10時前後からとは、保護者は正規職員で就労できないことを意味する。利用者も多様である。それに応じるサービスはなぜ生まれないのか...。また、夕方からの趣味のサークルはなぜ出来ないか...。選択できるが、選択するものがない現実では「措置から契約へ」は絵空事。時代の波にもまれ自動車産業はトレンドを創る。車種、デザイン、色、素材、燃料を繰り返し再考し選ばれるサービスを提供する。それと何も変わらない「措置から契約へ」の"契約"。だが社会福祉の本質を見誤ったものは受け付けられない。なぜなら社会福祉には"公共的役割"がある。当事者は今もず~っと選べるサービスを待っているが、サービス提供者は措置から脱出できたか...。物事を多様に見る重要性を改めて想う

卒業論文と言う登竜門

大学教員時代、卒論指導は大変だが一番面白かった。大卒の"証"は卒業証書で資格取得以外は楽しく過ごすのが今どきの学生。そこで「自分で大学を卒業した"証"を創ろう!」とゼミ希望学生に投げかけた。それでたじろぐ学生は希望しないだろう・・・と。ゼミは10人以内だが複数教員に面談する規則があり倍以上の学生が来た。それ故、卒論必須とした。

 卒論発表会を見ると多くのゼミには統一感があったが、個性豊かなテーマが並ぶゼミだった。それぞれ興味ある課題を探す。3年終了前にテーマを決め春休みに構想を練り4年の初日に発表。このテーマで書けるかと心配なものもあったが、出来るだけ自由にした。行き詰る学生もいたが、GW明けに取組み始め、書きだすのが梅雨の頃。毎日、相談に来る人も全く音沙汰なしの人もいたが、皆どう書いて良いか判らないのが常。正直、"コピペ"も"丸写し"もあったが、出典だけは明示させた。書くことになじむと調べる姿が板についた。何を学んだ時よりも自分の中から出てくるものを書く作業は、学生をぐぅ~ん!と成長させた。卒論提出最終日は、教室にパソコンを数台用意した。自前の学生が多いが、用意したものを交互に利用していた。助け合い締め切りギリギリまで取組み、終了と同時に凄い解放感に浸りしばらく動けなくなるほどの充実感。そして成し遂げた自信がみなぎっていた。学生たちの努力に報いるために、簡易製本機で卒論を製本して手渡した。この中で何事にも真摯に取組むことや最後までやり抜く姿勢を持つ大切さを味わっていた

 だが、苦労は尋常ではない。"てにおは"から直された人がどんどん力をつけて、終了時は他学生と変わらなかった。いつまでも書き始めない学生が、難しすぎたと諦め顔で面談に来た翌日"分かった!これです!"と嬉しそうに1冊の本を持参した時の顔は輝いていた。参考図書が少ない学生はインタビュー調査で補った。それは「なぜ左利きは矯正されるか」。また「アンパンマンとバイキンマンの人間関係」から、家族的なアンパンマンと、会社組織的なバイキンマンの環境の違いで幼児の生活環境を論じた。自分史と幼児教育のあり方を書く学生は毎年いた。往々にして教科書との対比で親の育て方を批評した。それゆえ母との確執も見たが、ありがたいことに大人になった我が子の考えを受け入れてくれた。そして「胎児虐待」の学生は、新たな考え方を丁寧に調べ、卒業と同時に念願の乳児院に就職。稚拙な文章は否めない。不十分な調査も仕方がない。ルール違反でなければ探した文章を使うこともあったが、しっかりと"学び"をつかみ取っていた。

 ゼミのテーマは"支援とは..."。対人援助職として一貫して"支援"について考える時間。内容は問わずに毎回、誰かが"支援"について考える素材を発表した。"韓流スターのおっかけ体験"や"ディズニーランドのアルバイト"もあった。つまり人のいるところ必ず"支援"があると示していた。支援する側と支援される側の上下関係を想定しがちだが、支援は本来平衡の関係"教育は1本の丸太棒と2人の人間から始まる"が好きだ。どちらかが上ではなく上がったり下がったりするシーソーの関係。教師然とするのではなく、相互性がある支援が卒論指導だった。真摯な姿勢は相手の真摯な心を刺激し、真摯な心と心がさまざまな模様を織りなすと学んだ

「制度の番人」にならないために

 いつも"社会福祉とは何?"...と、疑問、不安、焦りを感じる。役所の窓口で「それは出来ません!」と断られている人を見る。「それは出来ません!」は"制度にありません!"とか、"制度に合いません!"などの意味だろう。つまり"制度に合わせて相談に来なさい。"と言われているようなもの。社会福祉は制度がなければ出来ない。収益を得てそれを財源に行うのではなく、税金等に頼らざるを得ないから、公平・公正を保てなければ瓦解する。だから例外を作るのはすごく難しい。制度は人間が作っているが、人はそれぞれだから個人的課題はもともと制度になじまない。だが制度を重視しなければ成立しない。だから、制度を作る人も、制度を運用する人も、制度を変えたいと思う人も、ジレンマがある。

 公務員時代、支援の職場と制度を作り守る職場を行き来した。支援の場ではプライバシーに踏み込まなければ問題の本質が見えない。本質を見誤ると制度が機能するどころか自立を損ねかねない。ケースワークの母・リッチモンドは「ひもじい思いをしている子に食べさせるようにと酒乱の父親にお金を渡して問題が解決するか?」と問う。それでは酒量が増え問題を拡大する恐れさえある。ゆえに"支援"は課題を多角的に読み取らなければいけない。だから情報を積み上げ詳細に分析する仕事が求められる。しかし、諸制度を見直す時は、個々のプライバシー問題まで積み上げると課題が多様に見え過ぎて核心にたどりつきにくい。核心を探るためには、情報を削ぎ落として共通項から見る。結局、制度は個人の事情に応じきれない。しかも、制度は社会情勢や時代の変化が重なり更に複雑になる。それなのに新制度に出会う時、自分基準で最良を願う。期待感も含め自分との乖離が際立つ。その結果、不満が充満する。こうなると制度が永遠などと到底思えない。

制度は人が作るので、人が変われば考え方も変化する。また、税収の増減など社会動態で変化する。すべての人が平等で差別なく生きる権利があると言い始めたのは第二次世界大戦後。時代の変遷で見るのと同様に、世界の動向で見るとすべての国や地域の中で障害者の平等性を認識する国や地域がどれだけあるか...。今の制度は10年もつだろうか...?と思う。障害の概念はどうだろう?IPS細胞で脊髄損傷の人が治療可能になったら変わらざるを得ない?角膜移植手術で"見える人"になれば障害者ではない?でも、身体障害者手帳は更新を必要としていない。平成に障害の仲間入りした肝機能障害や障害者自立支援法施行から一部難病治療者がサービス対象者になった。さらに、生活保護基準など制度改正は毎年行われている。それがサービス利用者の暮らしに影響を与える。もちろん社会的養護の子どもや保育に欠ける子どもなども。だから制度に従順であるべきだと思い疑いもない人たちを見ると不思議でたまらない。社会福祉制度草創期に民間事業者を社会福祉法人として認定した。それまでの事業を確保するためには必要不可欠だったからだろうが、表向きは"民間事業で活性化を図りアイディアを生かす"だった。民間社会福祉事業者としてプライドを持って、次代に見合う先駆的事業展開をしたい。だから、制度を守る姿勢と、制度を改める志向性を失わない事業展開を希求する。ゆえに、制度の番人で終わるのではなく、制度をさまざまな角度から検証したい。