日記

理事長日記

"障害者って、何?"

休日の遅い朝食時にラジオから"ホームドア"の話題。視覚障害者がホームからの転落を防止するガード。10年以上前に駅のエレベーター設置業務にかかわった。1976年に「臨港バスジャック事件」で横田弘氏等が路線バスを止め車いす利用者の乗車を訴えた。これを機会に神奈川県は当事者団体と交通バリアフリーの協議を重ねた。当時は車いす利用者は公共交通機関の利用が難しかった。今は駅のエレベーターは当然になり「福祉の街づくり条例」の言うように"障害者が住みよい街づくりは、誰もが住みよい街づくり"で高齢者やベビーカーの親子も便利になった。

"ホームドア"は、"視覚情報"にハンディのある人に有効。視覚障害は"見えない""見えにくい"だけでなく"視野狭窄"の人もいる。広角に見えるのが人間の目だが疾病等により見える角度が極端に狭い人がいる。このような障害の人にもホームドアは命綱だろう。当事者によると多くの視覚障害者はホームからの転落、または転落しそうになった経験があるという。見えない障害の恐怖である。次に聴覚障害、"聞こえない障害"の人は音声情報を獲得できない人たち。"見えない障害者"と呼ぶことがある。確かに聴覚の障害は他人から見えない。しかし、音声情報がないと事故などの急変時に、人々の波に応じきれず危険を感じるそうだ。この時文字情報が目に入れば大いに役立つ。しかし、人の波の中で文字情報を獲得するのは至難の業。だから文字情報が流れる掲示板の近くで待つのだろう。それは社会生活上の不自由か...。また、最近は改善されたが、車中でのケータイの通話を遠慮するよう案内が流れる。多くはマナーの問題と理解しているようだが、当初は心臓にペースメーカーを装着している人の装置が狂うことが理由だった。ケータイが出始めた時、ペースメーカー使用者から"電車は恐くて乗れない"と聞いた。身体障害にはペースメーカー、人工肛門、人工透析などの"内部障害"があり困ることがそれぞれ違う。人工肛門の人は"みんなのトイレ"が必須。一般的な車いすトイレでは難しい。だが、まだ精神障害者も、知的障害者も、発達障害者も書けてない。たとえばトイレで考えると同性介護が当然の障害者支援だが、思春期を迎えた知的障害者の男性に同行した母親が公共トイレで介助が必要な時がある。親子で地域を歩くにも弊害があるということ。しかし、これを社会的問題に出来ていない。一般的に男女別のトイレが当然だが、LGBTQの人たちはどうしているか...。女性の姿で男性トイレを使う人はいない。しかし、男装の女性は?最近、北欧で男女別ではないトイレが出来たと聞く。LGBTQの人たちに配慮したようだが、思春期に入った知的障害者の親子にも朗報だろう。

 ことほどさように"障害"は多様だが、1障害だけで"障害福祉の専門家"だと思う人が多い。障害者基本法では身体障害、知的障害、精神障害を3障害としているが、その後に"その他の障害"とある。サービス受給者としての"難病"の人たちなどだが、難病認定者には"障害者"といわれることに違和感を覚える人もいる。国際基準では"ギャンブル依存症"の人は精神障害に含まれが、彼らの多くは障害者の認識は無い。国際的に日本の障害概念は狭いがそれを認識する人は少ない。だから!"障害って、何?!"。

"ねぇ、ビデオ借りに行こうよ..."

初めての成人施設でリーダーを受け持った。ローテーション勤務ではなく、集団を束ねる役割は、利用者との接点が少なく関係性を創ることが難しい。しかし無視すると暮らしぶりが判りにくく、職員へ適切に話せなくなる。だが深く関わりすぎると職員がやりにくくなるので実に難しい。年上の職員だとさらにやりにくい。

そんな時に50歳手前の利用者が近寄ってきた。腕時計を見せて"いいだろう!"と自慢げに話す。職場実習時の収入で買ったらしい。たっぷりと時計を褒めた後、"ところで何時?"と聞くと"それを言っちゃ、おしめえよ~っ!"と立ち去った。近くの職員に訊くと時計が読めないことがわかった。確かに"それを言っちゃ、おしめえよ~っ!"だった。

夜勤者が急に休みになった夕方、誰が夜勤者になるかを繰り返し聞くので自分だと告げると"ビデオ...、ビデオ、借りに行こうよ""どこまで...""いつも行くんだよ、近くにあるよ!""いや、仕事中にいけないよ""いいじゃん、ちょっとだけだから...""何借りたいのさ...""だからさぁ~"言いにくそうだ。"ね、ね!だから...、エロいやつ...""いやぁ~、今日はダメだよ...""なんだよ...いいじゃん..."と舌打ちしながら立ち去った。

 親近感を覚えたようでいろいろ話すようになった。ある日、"俺、仕事してたんだよ!"と話し始めた。豚のお世話をしていたというから養豚場で働いたようだが、社長が怒って解雇されたと首の前で手のひらを横に引いた。理由を聞くと、豚が泳げるかどうかが仲間内で話題になったので、率先して川に追い込んだそうだ。"そう..."と、あとは言いにくそうだったが"トンシ!とん死しちゃったんだよ!"。だから社長が怒って"首だ!"と怒鳴られたそうだ。本人は"トン"が"豚"と掛け合わせてあることにはとんと気づいていなかった。ただ周囲の人の言葉をそのまま記憶していた。真顔である。だから、俺は職場実習には絶対いけないと付け加えた。職員が可能性のある彼に自信を持たせ、せめて就労系の施設での活躍を期待していたので予防線を張ったようだった。

 そこで施設近くの八百屋に相談し、1日2時間、段ボールの片付けを受けた。解雇経験からなかなか承諾しなかったが、2週間だけ試してみることにこぎつけた。2週間はあっという間で実習は大成功。継続依頼が来る頃には彼も自信を取り戻していた2時間が半日になり、仕事の幅も広がった。その頃、市の清掃業務で働く障害者を募集していたので応募し採用された。転勤ししばらくぶりに戻ると彼は退所していた。就労が定着し他の数人とグループホームに転居していた。

 施設敷地内の戸建ての建物に彼らが宿泊する時があった。ビールを数本持って仕事帰りに訪ねると歓待してくれた。夕食を済ませた直後だが、飲みながら仕事の話、職場内の人間関係、嫌だったことなど、話す様子は居酒屋で見る風景と変わらなかったそこで"どうだい...、施設に戻ってまた仲良くやろうよ!"。冗談のつもりだったが真顔で"ヤダ!やだ!絶対やだ!"。大合唱された。理由を訪ねると"わかんねぇ...、でも絶対やだ!"。大人の世界には、男の世界には、言うに言われぬ事情がある。"そこんとこ承知の上、お付き合い願いたい!"と彼らが言っていると思った。(2022.1)

「初夢」

 昨年は「インクルージョンプラン(仮称)」の策定に忙しかった。準備は1年だが、以前からこれに繋がる作業を進めてきた。最初に着手したのは「研修体系の見直し」。役割に応じた業務推進の「等級別研修」と、支援や相談、制度の理解など障害福祉サービスにかかる「専門研修」を体系化し、誰もがふさわしい研修を受けられるようにした。単に知識の獲得ではなく、日常的に使える"道具"となることが課題。だから講義だけでなく、業務中に学びを深めるよう意識した。キーワードは"OJTOFFJT"

その中で課題となったのが"施設内虐待"。頻発したからではなく虐待を防ぐ手法を考え、どう支援に活かすかだ。そこで"マルトリートメント(不適切な支援)"≒虐待のグレーゾーンの研修を重ねた。そこから「点検シート」を見直し、マンネリからの脱出、身近に感じられるものにした。結果が出る頃に法改正となり今年4月に「虐待防止委員会」の設置・運営が義務化された。藤沢育成会はこれまでの取組みを土台に具体化する。

一方で、監事監査の指導を受け"リスクマネジメント"を検討した。事業特性による違いを視野に入れ法人全体で統一性のある"ヒヤリハット報告"を徹底し、データを積み重ねた。当初、項目の分類が不十分だったが次第に統一化できた。ここまで数年かかったが、結果的に多くの職員の意識下にヒヤリハットの意味が根付いたことが最大の成果。3月末には法人統一のリスクマネジメントのルールが出来上がる。

これらから「職員行動指針」の見直しが提案された。策定から時間が過ぎているから再検討の必要性は誰もが認識しており当然のように検討し始めた。重視すべきは"日常使い"が出来る行動指針。"日常使い"とは、誰もが認識し、理解し、口にし、具現化出来ること。支援は利用者との相関関係だが、これまでの指針は職員だけ考える傾向が強く、利用者の視点があるようでなかった。そこで"誰もが判る、職員自身の言葉で作る"を重視した。だから多くの職員が参画する場を設け検討した。これも2年かかったが3月には完成する。

これらは、あと3か月ある今年度目標の「日常を見直そう!」の中で取り組んだ。私たちは"日常"を仕事としている。それは間違いなく利用者の日常。そして、ご家族の日常にも大きく関係する。だから今の"日常"を当たり前にせず、それを見直し支援、予算や収支、そして制度へのチャレンジも日常と考えている。日常を科学することが障害福祉サービスの質的向上を図る手立てだ。それは、虐待防止ではなくより良い支援に取り組むことが結果的に虐待防止、リスクをなくすのではなくリスクを理解し予見して減少させることがリスクマネジメント、故に"リスクと共存する日常"を求めていた。

ひとつのことが、いくつもの課題、未来につながる目標に連動する。その課題だけで問題解決としたら躍動しない。些細な積み重ねが"日常"なら、些細なことが苦しいのも"日常"。だから見落として当然ではなく、連動して憂い、想いを巡らせて考えるとわずかなことも良く見える。それを理論と結びつけ、新たな障害福祉サービスを生み出したい。社会福祉は、理論と実践を分断し続けてきたと考え、"理論値"を学び、それを"臨床値"に置き換えられる障害福祉サービスとなった初夢が正夢になることを夢見た。(2022.1.1)

"アニキ!"と呼ぶ少年

児童相談所の一時保護所に居た頃は、ユニークな職員がいてシンナー経験少年に部屋のペンキ塗り替えの課題。幼児もいるので部屋を閉めて始めた。ペンキにはシンナーがつきもので、作業場はシンナーの臭いが充満した。少年たちのつらそうな顔が印象的だった。

 一時保護所はご存じのとおり今後を決めるために子どもの様子を観察する場。また、被虐待児を一時的に保護する場。さらに、施設適応が難しい子どもの方向を決めるまでの待機場所でもある。2歳の幼児から18歳未満の子どもたちがそれぞれの理由によって保護所を利用する。3食食べられることで充足する子がいる。ピアノが無いと嘆く子もいるが、机に向かったことがない子もいる。それらの子どものほとんどが養育者の問題によってこの状態に追いこまれ将来の不安を抱える。だから、日常は何とも統一性がない。また、出来ることもできないこともあり不満が充満する。

 夜9時頃、警察から電話。緊急に幼児2人を保護した。警察官が子どもを連れてくると職員は事情聴取、子どもたちの面倒をみた。まずは風呂を沸かし垢だらけの身体を洗い着替えさせた。厨房職員がいないのでインスタントラーメンを食べさせる。おいしそうに食べた子どもはそのまま寝入った。観光地のそばにある洞くつで保護されたという。

 別の夜、あと数か月で18歳になる少女が保護された。中卒まで児童養護施設で育ち、旅館で働いていた。しかし、父親に住処がバレ、貯金全てを持ち去られ自殺を繰り返した。紐や刃物などはしまったが、女子部屋に入ると様子が判らない。気になるが、18歳の少女の部屋を覗くのは男子学生に出来ることじゃない。幼児の面倒を見ることなどで心を癒され職場復帰した。その後音沙汰がなかったが、元旦の勤務明けに来た。初詣に行きたいが、誰も一緒に行ってくれる人がいない...。用事もなかったので付き合うと帰りに告白された。既に結婚を決めていたので、気遣いながら断るとそのまま1人で帰った...。

 幼児が多い時に小学6年生の男の子が来た。乱暴者で言葉が汚い。それまでの暮らしが想像できる振る舞いに苦り切っていたが、周囲に迷惑が掛からないうちは黙っていた。慣れると幼児たちをいじめ、泣かせることが増えた。抑えきれずうっぷん晴らしをしているのは判るが、幼児たちも親から切り離され、ようやく心を保っているから安易に放っておくことは出来なかった。そこで強く叱ると向かってきたので取り押さえて諫めた。泣きだし、うめき声!"おめぇなんか...、おめぇなんか...大学まで行きやがって!俺は中学卒業したら土方だよ!土方!"うずくまって泣いていた。当事、親元を離れた子どもが高校に行く術はほとんどなかった。将来を悲観した少年の声が響いた。そばで落ち着くまで待ち自分の話をした。中1で父が他界し、アルバイトで学費を稼ぎ大学に行っていることなど...。技術も知識もない学生にはそれしか出来なかった。翌朝、玄関に靴が並べてあった。す~っと出てきた少年が"どうぞ!兄貴!""ボク、兄貴って呼ぶことにしたんだ!いいよね"と笑顔。どうしていいか判らなかった...。しばらくして児童養護施設が決まった。その後を承知してはいないが、高度経済成長の一角を担う働き手になっただろう...。こんな子どもたちに導かれて社会福祉の道に入った。(2021.12)

『ダウン症の子をもって』

1983年の初版。当時買った本はどこかに行ってしまったが、古本屋で文庫版を見つけ懐かしさから求めた。"積読"のはずだったが、読みはじめ懐かしさが募る。当時、どこまで判っていただろう...と思った。通所施設との連絡ノートの記載事項は、著者の奥様が母としての記述。親の心情を想うと共に当時の障害者サービスの貧しさが歴然とした。著者は正村公宏専修大学教授(当時)。後に福武直賞を受賞した『福祉社会論(1989年)』を著した。

 その頃、出来立ての地域サービスのケースワーカー勤務で「家族教室の企画、立案、実施」があった。この本を手にして浮かんだ企画が"家族それぞれの立場からの発言"。"母の立場"は多くの候補者がいた。"当事者"は身近な人にお願いした。"きょうだい"は職場の後輩に頼んだ。とにかくお金がないので報酬が弾む人はお願いできなかった。著名人と知らず正村家に電話した。年間10回前後の講座のうち予算ありは2回程。後は報酬なしの人を頼った。だから、身内総動員の企画。受講者はスタートしたばかりの養護学校の親たち。副園長と交渉し通学バスの帰りに受講希望者を迎えた。どれだけ来てくれるかなど全く判らないまま第1回講座を正村先生にお願いしたくて飛び込みの電話だった。"あの、神奈川県...の○○です。本、読みました。家族教室で...父親の立場で講義をお願いしたいのですが..."。見知らぬ大学教授への電話は...しどろもどろだった。"いつですか?時間が合えばいいですよ!"。あっさりオーケー。日時を伝えると"大丈夫ですね。行きますよ!""ありがとうございます"。なんと、報酬も何も伝えないまま承諾していただいた。

 出来立てで閑散とした駅を選び、電話だけで顔が判らないので施設名を書いたボードを掲げて待った。笑顔だがまなざしが厳しい印象で細身の方だった。障害福祉の仕事を応援するつもりで遠方まで来ていただいたようだ。受講者は50名ほど。満員。"父親"の立場に徹した話だった。それが子育て中の母親には"心の支え"や"大きな励み"になり、"心の癒し"にもなった。その後の家族教室は、毎回30人前後が受講し常に盛況だった。何より、会場でお互いを知り、友となり、協力者となった姿が無理してやった甲斐を感じさせた。それもこれも第1回講座で価値を高めていただいた正村先生のおかげだったと思い出しつつ『ダウン症の子をもって』を読み直した。子どもへの心情、家族内での行き違い、子どもの理解の難しさが当時どこまで判ったか...。それでもこの時、障害福祉は障害当事者だけの問題ではないと考えはじめた気がする。

 このような古い話をするのは、古い人間になった証拠と判っているが最近はよくある。著書では、『情況の倫理(ヨルダン社、岩村信二著)』。既に絶版だったが、ネットの古本市場にはあった。98円。あぁ~書き込みがあるな、ボロボロなのを承知して購入。原爆投下は戦争を終わらせるために必要...という米国内の認識と被爆国日本のずれ。学生時代に読んだがほとんど判らなかった。だが印象的でもう一度読みたかった。学びとは、新しいものを追い求めるだけでなく、古きを温め、蓄え、深化(進化)させるもののようだ。『ダウン症の子をもって』、そして正村公宏先生へ感謝を込めて。

"自傷"は心の叫び

 とにかく頭を守るためヘルメットをかぶっていた。うずくまるように座り側頭部を叩く女性。頻繁な時は職員同士で"不安定"と伝え合ったが、抑える手を振り払い叩いた。なぜ?どうして?痛くないの?訳が分からずなすすべもなかった。人間の痛覚が鈍磨するわけがないと思いつつ、見続けると判らなくなるほどの叩き方だった。か細く"フナンテイ..."と繰り返す。"不安定"が自分の様子だと知っていた。ある日、白いヘルメットが赤く汚れた。叩きすぎて手のひらが裂けていた。やむを得ず精神安定剤を使うと自傷は減少したが動きが鈍くなった。唯一"モーニン、カケテ!"。大好きな曲で"フナンテイ"がしばし消えた。だが、どうにも応じるすべがなかった。

"ダメです!頭に、そんなもの..."地域サービスで緊急一時保護された低学年の少女の母親は、体裁が悪いので一緒に歩けない...と。障害受容が出来ず追い詰められ養育困難となり入所の是非を諮っていた。でも、母が施設入所させたいのは明らかだった。少女は繰り返し自傷(頭突き)があるため、常に一緒にいる支援が必要だった。投薬でも抑制しきれなかった。"そんなもの!"とは頭部保護のヘッドギア。母の心を見透かすように少女はわがままに自己主張したが応じる母ではなかった。するとさらにエスカレート。母が少し落ち着きを取り戻し、家庭生活を受け入れようとした頃だったがヘッドギアは決定的だった。担当医に少し待って欲しいと交渉すると"命の問題なのよ!"と一蹴された。母子の暮らしを求め必要最小限にヘッドギアを使ったが、母の足は遠のき施設入所が決定。すると少女の自傷がこれまで以上に激化した。心の空洞を埋める手段はなかった。その後の便りで妹は当時まだ珍しかった中高一貫校に進学した...。

 次は男性。思春期真っ盛りの養護学校高等部生。児童相談所から入所枠が空くまで一時利用でつなぎたいと言われた。初めての相談は、両親に妹と本人の4人で来た。母は話しに集中しつつ少しの涎も見逃さずふき取る。父は本人の両手を握ったまま。捕まえているのであって手をつないでいるのではない。母が見落とすと妹がハンカチで兄の涎を見逃さずふく。"それではお兄ちゃんだけプレイルームに行きましょう!"と誘うと"ダメです、あの子は私がいなくちゃ!"。"そうですか...、近くですから何かあったら声をかけます"と連れ出そうとすると、強硬に同行を主張。次は"妹が一緒なら..."と。父は無言。それでも親子分離して別室に行くとバッシ!バッシ!と鳴り響く。母親はおどおどしながら"だから言ったじゃないですか!""私が一緒じゃないとダメなんです!"そうですかと受け流しながら、話し続けていると音がしなくなる。"どうしたんですか?""何をしているんですか?"...と疑うので観察室から様子を見た。心理担当の膝枕で穏やかに眠っていた。"どうして?""..."皆、理解不能。心理担当と"過干渉"で一致。治療計画を立て3か月短期入所。毎週母親面接と週末帰宅が条件。児童相談所や学校等関係機関とのカンファレンスを月1回実施。退園前、母は自宅で見ると宣言、経過観察で毎週来園した。過干渉が鳴りを潜めると自傷行為は消えた。本人を諸サービスに委ね仲間と地域作業所を立ち上げた。母親が本人を受容できた。地域で暮らす可能性を初めて感じた経験だった