日記

理事長日記

コロナ禍の年の瀬

クリスマスの夜、重い腰を上げ政府が "ステイホーム"を訴えた。「会食は少人数で」と言っていたのに大人数の会食が露見した人が訴えても世間は聞く耳を持たない...。街中の人込みがいっこうに消えず、感染予防第一の庶民感情が醸成しない年末だった。年明け、ついに「緊急事態宣言」が発出された。

例年なら2人で年の瀬の買い物に出かけるが外出もままならなかった。一度、藤沢まで出かけたが、用事を済ませると早々に帰宅。コロナ対策が年末の風景を変えた。そんな折、テレビで年末の買い物風景を映し、例年より多く買う人が増えたという。外食を控えている様子が伺えた。最近は、おせちは"我が家の味"ではなく"○○店の味"。旅行や外食など普段より豪華になる時だというのに今年はどうも様子が違う...。

 師走に入った頃、弥勒寺にあった飲食チェーンの2店舗が閉店し異変に気付いた。駅に向かったところの定食屋も閉店。居酒屋はランチをやめ夜だけに...。ここだけでこんなに...。湘南台駅からちょっと外れた場所では、高齢者入浴サービス事業所だけが営業。喫茶店、リサイクルショップ、雑貨店は閉店。近くの新聞販売店も閉鎖。新聞はネット情報に押され定期購読者が激減したと聞くが、コロナ禍でとどめを刺されたようだ。これが現実!こちらからは"Go Toキャンペーン"を中止すべきと考えるが、あちらからは死活問題!の声が...。しかし、緊急事態宣言時は自粛出来たのに...の気持ちもぬぐえない!

年の瀬の風景がニュースになり、コロナ禍で失業した人が訴えていた。働いていた飲食店が閉店し失業。貯金を切り崩しているが...もう限界。もう一度、添乗員をやりたいので今は我慢...。入学する子にランドセルが買えない...、収入は激減!閉店を余儀なくされた店舗のシャッターに人々の姿が妙にリアルに映っている気がした。苦渋にまみれた人の多くがこれまで必死に生きてきた。限られた環境でも苦しみもがき必死に暮らしていた...。

 このような時、社会福祉、社会保障は無力か...。コロナ禍で失業する人の多くが非正規職員だとすれば社会保険加入率が低い。セイフティーネットは未加入者に機能しない。生活保護は様々な決め事があり利用には至らない人がいる。だから制度の狭間でセイフティーネットから見放される。想定外の異変に添うように役割を果さなければ何のための制度...。昨年、唯一の嬉しいニュースははやぶさⅡの快挙。はやぶさⅠのチームリーダーが書いた『「はやぶさ」式思考法(飛鳥新社、川口淳一郎著)』に思考の方向を変える24の提言がある。例えば"教科書には過去しか書いてない""「わからないこと」を認識しよう"など示唆に富んでいる。コロナ禍は、制度の狭間を大きくし社会問題をリアルに光り輝かせたようだ。自己責任を否定するような発言をする人がいるが、それには賛同できない。自己責任を問うことが出来る社会を創るべきだ。受け入れがたい不平等が充満する社会を正し、自己責任を問うべきだろう。出自や親の富などの環境にしばられる社会ではなく、自らの意思で道を切り拓ける社会が欲しい。それは窮地に追い込まれた時に社会的セイフティーネットが機能する社会ではないか...。(2021‐1月②)

新春に想う

新型コロナウイルスの猛威に恐れ、立ち向かう日々にあけくれた年が去り、東京オリンピック開催が予定される新年を迎えた。

   あけまして おめでとう ございます!

 新たな年を迎え何やら新鮮な気持ちになるが、今年は"ウイズコロナ"で新春をお迎えと思います。新薬やワクチンのニュースを見ながら、いつまで続く「コロナ禍の時代」と思う。不思議なことは、コロナは人を選ばない...、誰も感染の危険性がある...と言われるが、感染する年齢などを見ると本当に?...と。

 第三波は若い人から広がった。いわゆる"夜の街"からの感染拡大は明らかだった。そうでなければ、営業時間の短縮や自粛を特定業種だけに求めない。酒席、接待を伴う場にフォーカスされた。小池都知事の"5つの小"はそれを如実に表す。そういえば、飛沫を飛ばし大声で話す子どもたちの感染は少ない。無症状かもしれないが、経路をたどると家族からが多い様子。医学的でも、科学的でもないが、欧米の流行はハグなどの生活習慣が要因ではないかと推理すると感染予防の要素がみえる気がした。

 これを法人事業に照らし考えると"支援は身体接触を伴う!"という前提が気になった。それゆえ支援現場に"持ち込まない!"のが最大の感染予防という。そのとおりだが"支援は身体接触を伴う!"を考え直し、身体接触を前提としない支援はないか...。生活習慣が違うだけで感染率が異なるのなら生活習慣を変えると感染リスクを少なく出来る。つまり生活習慣を見直せば感染リスクが減る。対面の食事支援を並列し遮蔽版を置いたら感染リスクは減る。常にマンツーマンが必要と思い込んでいる利用者にエリアを設定し離れて支援すれば感染リスクが減る。幼児でも制止されるとぐずるのだから、自由を奪われる状態を好まない。人生経験がある人には"密着支援"はストレスの塊だが、危険が伴う...が職員の大勢。しかし、利用者は安全を確保して距離を置いても "視線"で拘束感を感じる

 だから、支援の「新しい生活様式」とは、"身体接触が前提"を見直すこと。利用者の特性が判れば、次の行動を予見できることが多い。行動を分析しデータ化すれば一層科学的根拠に基づいた対応だと証明できる。法人職員が強度行動障害のある人の行動分析をした結果、ほとんど行動特性を読むことが出来るようになった。これが支援だ!支援は密着しているから出来るのではなく、エビデンスのある行為。だからこれを機会に身体接触を前提にしない支援を探そう!

「新しい生活様式」は、日常生活を変えようということ。始まりは感性予防策だが、これまでの支援の見直しが「新しい生活様式」に込められている。支援は日常生活そのもの。だから"支援"も「新しい生活様式」を考えなければいけない。それは支援にエビデンスを持つこと。それは利用者をしっかり理解すること。理解するために"現象"を追求するのではなく、"原因"を探求する。行動特性、行動パターン、生活歴、性格、障害特性、家族関係などからも推し測り、必要最小限の支援にする。それが利用者の心の安定や行動の安定をもたらす。それがコロナ後の新しい生活様式になりますように...。(2021.1)

しつけ? おしつけ?

最近、書く素材が見つからないと思っていたが、ウイズコロナで"街"を歩かなくなったと気づいた。久し振りに仕事で遅くなり外食と決めレストランに。オーダーすると1人ではすることもなく周囲が目に入る。見ないように本を読むが、声がどうしても聞こえる。電車ではイヤホーンをして聞かないようにするが...。

隣の5人家族が気がかり。座る前から低学年の女の子が泣いていた。母親の罵声が繰り返された。何とも居心地が悪い。すると今度は父親の罵声。父親は母親の繰り返し。いつものようで、他の子たちは素知らぬ顔で食事を選ぶ。それに応じる母親の優しげな声。泣く子がターゲットのうちは罵声を浴びずに済むと子どもたちは知っている。こうなると不快。だが、他人のことゆえ...。でも、食事までまずくなる...。

翌日、妻と買い物へ。それぞれの用事を済ませ待ち合わせた。休日のファミレスは昼食時、子連れ家族で一杯。既に食事中の4人家族が隣。父親が"ビールが来てない!"とウエイトレスに伝えるのを聞き"昼から、酒か..."と思ったが、仲良く食事をする雰囲気。優しげな声で子どもに接する母親。変な話だが、こちらも安心して会話を楽しみ始めた。しかし、しばらくして2人して吹き出してしまった。母親は優しげな声だが、有無を言わさぬ命令口調の繰り返し。指示的で矢継ぎ早の言葉に父親も従う。すると"お父さんありがとう!""○○君、えらかったね!"。母親がレジを済ます間に乳児を連れて玄関に車をまわすよう父親に指示。えっ!さっきビール飲んでいたよね?!いつものようで子どもを抱いた父親は黙って席を立った。母親は"○○?それとも...?"と想像し始めてしまった。

最近、親の"指示的な口調"が気がかり。子どもは母親と相反する行動をとろうとすると制止される。制止は言葉が強い時もやさしい時も子どもの足かせになる。歩ける子どもがベビーカーに乗りベルトをされていると、拘束?それとも何?...と思う。2歳の孫がバギーに乗せようとした母親に"歩く!"と主張。そう!歩きたい。興味のある所に行ってみたい。"危ないから!"とか"ケガする!"と言うが、子どもがどう思っているかを推し量らないととんでもないことを教えてしまう。危なくてもやってみたい、行ってみたい、試してみたい...は考えることの始まり。子どもはそんなことから自分探しをする。しかし、制止されるとそのチャンスをつぶす。実際に触ることが出来た時の喜びは、その先の生きるすべを見つけるチャンスだ。制止が"考えるな!""自発的行動はダメ!"と教えている。大人になれない日本人の大きな要因を見た。

ひるがえって、障害者支援は...。親の意向に配慮すればサービス満足度が高くなると知った社会福祉業界は"利用者さま""ご家族さま"という呪縛にかかっている。安全、安心は、利用者の可能性を奪っていないか...。本当の危険はどこに潜んでいるか...など日々考えているか。育成会ではリスクマネージメントをプロジェクトで検討中だが、この視点を持たなければ、"ケガしなければいい""安全であればいい"の考え方で利用者を拘束しかねない。その境目が"おしつけ!"≒"「お」しつけ"であると自覚したい。(2020‐12②)

コロナ禍の1年、本当にお疲れさまでした!

"コロナ禍"の1年を振り返る

1月、中国で"ヒト×ヒト感染"が確認されるとあっという間に武漢は封鎖され、病院増設の映像が流れ続けた。国家権力による都市封鎖は衝撃的だった。当初他人事だった『新型コロナウイルス』がヨーロッパ中に広がるとすぐに世界を席巻、パンデミックが宣言されグローバル社会の新たな景色を見せつけた。それは島国・日本も見逃さなかった。

 新年度スタート時に襲った感染拡大は全校休校、緊急事態宣言下で経済活動より感染予防が徹底された。"三密""ソーシャルディスタンス""エッセンシャルワーカー"など聞きなれない言葉が当たり前となり「新たな生活様式」が求められた。それでも衛生観念の強さやハグなどの生活習慣の違いが流行を抑える要素になると共に権力への従順さが救ったのかと思う面も見せた。このような中、エッセンシャルワーカーだという自覚の基、休止せず事業実施出来たのは法人に関わる全ての人たちの努力の賜物だった。もちろん、PCR検査等を受けた関係者はいたが、これまで"陽性者0"の結果は本当に幸いだ。

 一方、法人としては少しでも前進しようと努めてきた。研修事業は等級別研修の定着、選択専門研修ではテーマ設定等で成果を見せ、昨年学んだマルトリートメントを土台に今年は当事者の意見を聞く研修等で成果を収めた。一方で"不適切な関り"があり藤沢市に報告の上対処した。起きてはいけないことだが、前向きに考えれば法人内で検証出来るようになった兆しを見た。また「リスクマネジメント」や「行動指針」の見直しなどを積み重ねることで"支援"の細部を検証し新たな方向を模索した。

 また、時代にあった事業展開、事業見直しや収支の検証等を事業所、事業単位で行った。障害福祉は、以前と変わらない運営が多く、次代の要請に応じきれていない。これを検証し法人の将来を展望するためには多角的な議論が必要である。それは「法人全体研修」や「各種プロジェクト」で実施した。中心に『ネクストプランⅡ』を置きつつこれにとらわれない自由で闊達な展開を求めたが、新たな発信には至っていない。次年度は『ネクストプランⅡ』最終年であり、次の計画策定の中で更なる展開を模索できる手法が求められる。

 また、プランを現実のものにするためにはふさわしい環境作りが必要となる。それは①支援の質の向上、②財政基盤の安定、③法人の体質改善等である。もちろん、研修事業やリスクマネジメントの検証、行動指針の見直しなどから生み出せるものもあるが、利用者に選ばれる事業展開、時代の先を行く未来型新規事業、そして行政等とのコラボレーションによる新たな取り組みが求められる。さらに質を高めることが未来を創り出すと考え、"コロナ禍"にあっても少しずつ前に進めたのが今年だった。

 新型コロナウイルスは、社会を一変させ今も感染者数は落ち着いていない。しかも、決定的な治療薬がなく、ワクチンの普及には時間がかかるだろう。だが、東京五輪は確実に開催すると報道され、入場制限を撤廃した影響の実験もした。まだまだと言いながら確実に終息の道を歩んでいるようだ。そうであれば、コロナ禍後の暮らしがどうなるか、その時、障害福祉サービスはどう変化するかを考慮し、近未来を見据えた準備が必要だ。何故なら、私たちは利用者、家族に良質なサービスを提供する義務があるから。(2020.12)

「お疲れ様です」考

新聞の特集記事で"「お疲れ様です」考"の見出しを見た。最近はどこでも"お疲れ様です!"のあいさつ。メールでも一行目は判で押したように"お疲れ様です!"が目立つ。常々違和感があったので読んだ。個人的には"疲れてないよ!"とか"今、会ったばかりなのにどうして?"などが違和感の始まり。かつて詩人の蜂飼耳さんが、神奈川文化未来賞(2006年)の受賞インタビューで"言葉は時代と共に変わりますから..."と答えた言葉に斬新な印象を持った。"なるほど..."と"それでいいの..."の感情が混在した。だから、年齢によって言葉が違うのは当たり前だと思っている。それゆえ"お疲れ様"に違和感を覚えるとは、年を重ね時代に合わなくなった自分を感じてもいた。

 だが、新聞では若い層にも違和感を覚える人がいた。「お世話してない人やされてない相手には違和感がある」「本当に疲れた時に使える言葉を失いたくない」と様々。

 言語社会学者の倉持益子さんは、芸能界→マスコミ→一般と広まったようだとし、①みんながんばっている社会通念、②周囲に配慮してこそまっとうだという国民性、③何か声をかけることがコミュニケーションだという思い...が使われるようになった要因だと分析。

 旅行作家の哈日(ハーリー)杏子さんは、会った瞬間に"お疲れ様"と言われる違和感を話した上で"それは台湾語の「触飽末(ジャパーボエ)」です。直訳すると「ごはん何食べた?」と言う意味なんですが、「ハロー」と同じように出会った時のあいさつ"だという。

 落語家の立川談修さんは、高座にあがる人へのあいさつとして使う言葉は"ご苦労様"。目上の人に対しては失礼に当たると言われた。尊敬語と丁寧語の違いだと判るが、落語界では普通に使われているそうだ。"「お疲れ様」は、落語界では仕事を終えた人にかけるあいさつ。「お疲れ様」も「ご苦労様」も、どちらも相手をねぎらう言葉。ちょっとした使い方のずれも、落語のように笑いあえればいい"とあった。

 蜂飼耳さんが言うように時代と共に変化する言葉は"業界"によっても違うようだ。また言葉で伝えたことが言葉通りに受け取られると、そこに含めたニュアンスが伝わらない時がある。伝えたいことと伝わって来たことが違うとそれだけで大いなる誤解を招く。

 支援にはどうしても意識しておかなければならないことがある。その一つが"ノンバーバル・コミュニケーション"。非言語的コミュニケーションである。言葉ではない表現を意識しないと、言葉だけで理解する不十分さに気がつかない。人は言葉だけでその人の"想い"を理解することは出来ない。特に言語化が苦手な利用者には、いっそう言語以外の表現(行動特性、奇声、視線、表情等)を意識しなければ判らなくなってしまう。

 音楽やダンスのようなパフォーマンスを見れば、人の表現は言葉だけではないと判る。意味を持つ言葉は明快なので言葉に頼りがちだが、恋人同士に言葉は不要、赤ん坊の泣き声で要求が判る母親、阿吽の呼吸の夫婦など豊かなコミュニケーションがある。"お疲れ様です!"で気を使っているのだとしたら、そんな言葉が不要な関係性はどう作ればいいのか...。利用者支援にある"言葉"≒"表情"≒"感情"に想いを馳せる。(2020‐11月②)

自発的隷従~「法人実践報告会」に向けて

長期政権が変わる頃、気になる記事を読んだ。「隷従に慣れすぎていないか」と「自発的隷従が支える圧政」。"長期政権を支えるのは自発的隷従"の論説は哲学者西谷修氏。自由のはずなのに無力感を感じる時代を隷従に慣れすぎていると評す政治学者豊永郁子氏。"隷従"?と考え込む。"隷"は奴隷、"従"は従う。辞書には「付き従い言いなりになること。隷属」。従順や素直より強く就き従うことにどうして"自発的"や"慣れすぎ"が付くか判らない。自分から隷属する?自分から従うとは賛同したからではないか...。隷従...?

 西谷氏は歴史をひも解き"圧政は支配者自身が持つ力ではなく、支配に自ら服従する者たちが加担することで支えられる―。""追従者たちは、圧政者の言葉、声、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えを知るために自分の眼、足、手をいつでも動かせるように整えておかなければならない"と。また、豊永氏は、日本人は"奴隷になるものかと言う心情がぴんと来ないかもしれない..."と言いつつ、警官による黒人への暴行、ハリウッド女優たちの性暴力の告発など現在だけでなく過去にさかのぼる白人支配、男性支配の告発に踏み込む。そこにあるのは"二度と奴隷にならないという怒り"だと。

 最近、"どう考えたか?"の回答率が非常に低い。正解がある問いは調べながらも答えを探すが、考え方の問いには困惑するようだ。正解のない問いは判断できない...。でも何か感じたでしょう...と思うが、感情を言語化するのは苦手なの?

たとえば教室の教師は絶対的権力者。教師の"問"は解答しなければならず間違いは許されない。だから自らの感情を吐露しろと言う権力者=先生の"答"を忖度してしまう。突飛な反応は許されない。こうなると正解のない問いは難しい。教室は「模擬社会」。だから幼稚園から大学卒業まで、長きにわたる教室暮らしで確実に忖度を覚える。見えなければ失点しないが、見える、いや見えちゃったら"内申"が下がり命を絶たれる思いだ。中学の卒業式直前に遅刻し"お前なんか、高校入学取り消しだ!"と先生に怒鳴られた。構内の売店が行列で間に合わなかった。"出来るものならやれば!"。既に兄たちが教員だったから出来ないと知っていた。でも、多くの生徒はその言葉で愕然とする。これだけ長く"自発的隷従"を強いられれば、自らが感じ、考える前に先生(大人)の思考を忖度することが身に就く。しかも偏差値教育では思考力より記憶力で獲得した"知識"が問われるため"考えを訊かせて..."は唐突。それが"自由なはずが無力感"につながる。そして子どものストレス過多に加担する。

 だが、自発的隷従が教室より強烈なのが社会福祉施設。しかも、障害が要因で発言力が弱い障害者はいっそう問題。「働き始めた当初、すれ違いざまに入所者へ軽い暴力をふる職員がいた。植松が同僚らに『暴力は良くない』と伝えると、『最初だからそう思うよね』『23年後に同じことが言えるかな(『やまゆり事件』P83、神奈川新聞社取材班著、幻冬舎)』」とあった。日常はこうして変化し、非日常となり、やがて日常化する。だとしたら私たちは彼らにどう応えるべきか?本当の意思(自己)決定支援はどうすれば可能なのか?(2020.11)