日記

理事長日記

"自己決定"出来ない...

首都圏に「緊急事態宣言」が発出されてほぼ1か月。全国に拡大して2週間が過ぎた。まだ予断を許さない状態が続く。注意すべきは長期化で起きる気のゆるみ。決して予防策を怠ってはならない。結果が見えないと、気が滅入ったり、あきらめたりする。頑張り時!今、徹底しないとこれまでの努力が無駄になりかねない。だから、法人内もいくつかの難局を乗り越えながら見えない敵と対峙している。

営業自粛要請を無視して営業する、営業しているからと言って利用する人などは論外だが、"政府が決定しないと...""足並みをそろえて...""保証がなきゃ..."などの発言はどうして...と思う。インタビューに応じた発言に"主体性"がない。例えば理髪店は休業要請の範囲か否かは、国と東京都の意見の相違で発信が遅れた。その間、待っている人が"はっきりして..."。考えるに営業の可否判断に法的縛りはない...、危機的状況なのに...と思う。

 法規制されたからではなく、命の危険、り患の危険、感染源を運ぶ危険を回避する。だから日常と違うやり方をする!それが「緊急事態宣言」。緊急とは、日常の動きではありません!の意味。それをすべての人が意識して取り組もうということ。

 これまで安心して暮らせる衛生的な環境で暮らしたが、大丈夫ではなくなったから、これまでとは違う暮らし方が必要だ。それは法規制ではなく自分自身の問題=自発的行動。営業出来ない...、小売店舗は日銭で成り立つ...。だから、危機的状態なのだ。

 ホームレスのよう≒ネットカフェ暮らしの人は、これまで以上に命の危険にさらされている。だけど止めるわけにはいかない。それが社会の判断で国家や行政が取り決め役を担う。あちら立てればこちらが立たず...苦渋の選択ばかり

 他国に比べて緩やかな法規制は、多様な意見が交錯し妥協の産物なのか...。それでもやらなければならない時はやらざるを得ない。ドイツのメルケル首相は国民に向かって自らの東ドイツ時代の体験を話し、法で規制したくないが今はやらなければならないと訴えた。感染者数が増加しても死亡率が低いのは、3月から準備した結果、医療崩壊を防げているとドイツ在住の日本人医師が説明していた。国家、行政がやるべきことをやれば、ある程度までは対策の成果を上げることが出来る

 しかし、私たちの選択がある。出来ることは、お互いの命を守るために自ら決定し、実行しなければならない。風を通すと感染リスクが減るが、窓を開ける建物をあまり見ない。空調で空気はきれいになるが風は通らない。また、車を運転しない身はどうしても公共交通を使う。年寄りゆえいつの間にか手すりを触る。だから、効果のほどは判らないが運転手手袋を使う。これらは、政府が決めることではなく、自らの意思で決めること="自己決定"。自分で決める範囲まで、答えを求めていないか...。

そこで思い出すのが"答"はひとつだと思い込んでいる人。この思い込みは往々にして自分で決められなくなる。大事なのは"自己決定"自分を、家族を、仲間を守るために何をすべきか自ら決断するこれが自己決定(支援)だ!(2020.4)

正しく"恐れる"

ついに緊急事態宣言!いずれ...と思っていたがとうとうここまで来た。しかし、ロックダウンには至っていない。様々な意見がある中、大学病院の研修医が40人ほどで会合、集団感染となった。承知している人の行為は、社会に衝撃を与え不安をあおる。

一方、これより前に名古屋の病院で新型コロナウイルス患者の治療にたずさわっている看護師の子どもが保育園で隔離された。看護課長の話では、通園を拒否された人もいるそうだ。"風評被害"では済まされないことで義憤を感じる。医療関係者が新型コロナウイルスと最前線で戦っていることへ感謝こそすれ、その人の子どもを差別するなど断じて許せない。自らも感染源を運ぶ可能性を見落とした身勝手な言動だ。

 初めて障害福祉施設で働いた時、散歩の途中でランドセルの子ども達から"うつるから、あっち行け!"と石を投げられた。子どもは正直なもので、誰かに教わらなければこのようなことはしない。ほぼ半世紀前、障害者への偏見は今とは比べようもないほど強かった。子どもにすれば、なぜ悪いの...程度のことだったろう。

 人は、見たこともないモノ、理解不能なモノ、見えないモノ...つまり得体の知れないものを恐れる。"お化け"が怖いのはこの類でしかない。お化け屋敷は、人が変装している、操作している...。それが理解できると怖さは極端に減る。若者たちは怖さを面白がるが、年を重ねるとそれも面白くなくなり興味がわかなくなる。

 専門家が"解明できていない..."ことに怖さを覚えるのが新型コロナウイルス。4か月たち、次第にその正体が見え隠れしだしたが、まだ治療薬もワクチンもない。それはわけの判らない恐怖。ゆえに一層怖さをあおる。専門家さえ怖さの正体を見破れないのだから本当に怖い...と、怖さが怖さをあおり、さらに怖くなる。有名人が罹患すると怖さが身近に迫ったと感じる。若者は"知っている顔が亡くなり怖さを実感した"と。身近になればなるほど怖さが増幅する。怖さは状況の変化に気づかず恐さだけを突出させる

 本当に"怖い"のは、正体を見極めようとしないこと。得体が知れない状態から脱し、①3密(密閉、密集、密接)を避けるとクラスターを防ぐ確率が上がる。②マイクロ飛沫感染だから空気の入れ替え=窓を開けると感染確率が下がる。③開発してきた薬や医療器具等に効果がある。④新薬開発が進み治験が出来そう...などの報道がある。

だが、①都市部で医療崩壊の恐れ、②院内感染の恐れ、③一部若者の行動がクラスターを作りやすい、④接客を伴う飲食が感染を広げる、⑤社会福祉施設等の集団感染等まだまだ"恐れ"から逃れ切れていない。それどころかさらなる恐怖が間近に迫った印象が強い

 障害福祉サービスは、暮らし向きで困った状態になった時に役割がある。今は人類全体が大変困った状態にある。だからこそ役割をしっかりと果たすことが求められる。

 自分がうつらなければ良いのではなく、自らがうつす可能性を意識したい。すべての人達が"暮らし向き"に疲弊している今出来ることは、サービスを継続できる環境を整え続けること正しく恐れ、長い闘いになる可能性が高い新型コロナウイルス対策に、かからない、かからせない、運ばない、を徹底して乗り切りたい。(2020‐4②)

"見えない恐怖"

 中国・武漢で新型コロナウイルスが蔓延し都市封鎖などこれまでにない事態となり、突貫工事で病院を造る様子を遠い国の話しのように受け止めてから4か月しかたっていない。しかし、韓国...、イタリア...、ヨーロッパ...、アメリカ...とあっという間に世界中に蔓延し、WHO(世界保健機構)がパンデミックだとした。しかもさらに深刻な状態だ。

 パンデミックとは、ギリシャ語の"パン=全て"と"デモス=人"で「すべての人」との意味だという。また、"デミック=広がる"で「すべてに蔓延する」の説もあるそうだ。いずれにしても誰が罹患してもおかしくない...状態。
 医師に高齢で慢性疾患の身はハイリスク?...と聞くと「悪い状態でなければ...」。加えて、多くの人が保有している可能性がある...と言いつつ「さほど恐れなくていい。大事なのはしっかり予防する」こと。エビデンスがある人は、状況を理解して客観化できる...と思った。他医師は"一処置一手洗いの徹底!"と。

 学校再開はどうかと思ったが、文科省はガイドラインで"3密=密閉・密集・密接を避ける工夫を呼び掛けた。校庭での入学式など、卒業式も出来たのに...と思う。学校では3密は必然なので戸惑っているというが、普段を打破し工夫する発言が少ないことが恐怖だ。

 最新情報では新型コロナウイルスは"マイクロ飛沫感染"。いつまでも室内に浮遊する。飛沫が飛び交う室内にしないために密閉を防ぐ=換気をする=窓を開ける。これだけで大いに感染率が下がる。だが空気清浄機等で密閉空間の清潔を保っている普段になれ窓を開ける習慣がない。危機にあっては習慣を変える必要がある

 危機管理では当り前を変えることが絶対必要。例えば、"食事を楽しく食べよう!"が良いことでも今はやってはいけない。知らないうちにウイルスを運び周囲に迷惑をかけてしまう恐怖を自覚すべきだ外出自粛の休日にカップルが歩く姿を見ると、2人の事情も知らずに愚か者と感じるのは間違いかもしれないが、相手を尊重する姿とは思えない。
 
 
人間の歴史は、黒死病=ペストなど感染症の恐怖にさらされてきた。最近ではSARS=コロナウイルス=重症急性呼吸器症候群が中国から始まり世界を震撼させた。2003年7月の終息宣言まで10か月程。見えない敵と戦う恐怖は人々をパニックにする可能性が高い。しかし、見えるまでには時間が必要で最近では最低でも1年はかかると言われている。

 2020年3月28日、千葉県の知的障害者入所施設で大量感染者の報道。あっという間に感染が広がるのが集団生活の場。しかも、自らを守るすべを持ちにくい人たちが暮らす施設は重大な危険を伴うと自覚すべきだ。しかも、予見したとおり職員からの感染のようだ。だから、職員等がいかに持ち込まないかである。不要不急の外出を控えるのは、職員だけでなく、家族や近親者にも是非ともお願いしたい。加えて生活環境への配慮を怠りなくやらねばならない

 藤沢育成会はこれまで地域で暮らすように事業を進めてきた。だから利用者が街歩きを楽しんでいる。そこに感染のリスクが伴うのだから、一層リスクが高いと自覚したサービス提供と支援をしたい。(2020.4)

地域生活移行...とは、何?

 "世の中は矛盾だらけ"。矛盾は、「この矛はどんな盾も貫き通すと言う一方、この盾はどんな矛も通せない」と言う商人の話が語源。人は答えを一つにして心落ちつくことは少なくAやBの考え方を持つ。そのAとBが正反対な考え方だと心がうごめき引き裂かれんばかりになる。津久井事件でこんなこと許されないとした施設で身体拘束があった。しかも禁止項目すべてに該当。ひとつでもダメなのに全て...。犯罪行為ではないが、人としてあるまじき行為。報道の正確性は検証できないが、ここまで書かれるとそう思わざるをえない。しかも園長コメントが"家族の許可を得ていた"。ご家族と話した時"だって子どもが世話になっているから..."と口ごもった。家族は施設が申し出れば"やめてください"とは言えない。言えば"面倒見かねます..."と言われかねない。親の心情を知らなかったら素人。知っていればそれは確信犯

 考えてみると、社会福祉、障害福祉の仕事は、このような"甘え"がふんだんにある。入ってはいけない部屋、してはいけないことがたくさんある。鍵を使う施設の多くが侵入者ではなく外出者対策。「無断外出」という言葉があった。職員に断りもなく出て行く行為を指す。考えてみれば大人がふらっと出かけた時"無断"と言うか...。自己決定支援と言いながら"自己"は無視され、"事故"を起こさないことに腐心する。

日常的支援は人を守ることから始まるから、必死になれば障害当事者は息苦しい。モノ言えぬことを良いことに"あなたを守るために最善のことを..."と。だが、それは自らが非難されず、苦心しないで済む方向にどんどん押し流された結果。つまり、暮らし向きは安きに流れるものと支援のプロは承知しなければいけない。一般的に"仕事"は客観化すべきで、様々な行動がエビデンスに基づく。しかし、日常支援はほど良さが肝要。臨機応変にふさわしい答えに変わる。それは"答え"ではなく"応え"。だから、すべてに"大人"でなければ務まらないが、そのような職員とは限らない。みんなで作る仕事だが、個人の行為が犯罪に近づく。

"全制的施設"という言葉がある。例えば全寮制の学校や軍隊の寄宿舎などだが、それは一時期だけの生活空間。また入院ベッドも該当するが治療優先だから生活施設とは違う。その中に社会福祉施設がある。とりわけ"入所施設"。"あの子たちのお家..."の発言があった。不快な発言だが見過ごされた。何故なら施設が彼らのノーマルな暮らしを奪っていることを見ていない。鍵が閉められている部屋で暮らしたいですか?自分の意思で外出できない場に居たいですか?規則でがんじがらめが好きですか?そんなことはおかしいと言えない場だと知らないでいる。

 障害福祉の旗印は"地域生活移行"と言われるが、制度はほとんど旧態依然。新たなチャレンジを制度が邪魔する。許容範囲で行うと今度は運営資金が激減。それでは"やるな!"と言っているに等しい。急進的な発言かもしれないが地域生活移行が進まないのはこの実態があるから。制度の矛盾が、支援の矛盾を助長している。(2020.3‐②)

「5年ぶり...(対人援助職とは)」

 公務員卒業後、大学教員を勤めた。おかげさまで今も非常勤講師や職員研修の役割をいただく。そんな時に思い出すのがゼミでのやりとり。初日を迎える時、少し緊張気味の学生たちは戸惑いつつ応じていた。議論の様子などみじんも感じないが、半年ほどで個性的な発言が見え"何か"を持ち帰り始めた。ある時、終了後も座り込む学生がいた。体調を気遣い"どうした?"と訊ねると"考えすぎて疲れちゃった..."とぐったり。"答え"ではなく友人の発表に"応え"る時間になったと思った。卒業生からの職員研修講師依頼に応じるとゼミ形式を希望された。教員との関係性や積み重ねがないと難しいと承知の上でやったが、やっぱり思ったほどの成果はなかった。2年間、密度の高い関係性がある卒業生の報告は自分を検証する思いだ。

 最近、ゼミ卒業生からお誘いがあった。若い女性の中におじいちゃんが1人、ちょっと違和感。10人のうち3人が結婚、只今進行中も。ジェンダーの課題なども話すが、働き始めの若者の悩みは職場内人間関係。対人援助職が多く職場内人間関係が重要。どうも"先生"とは"教えたがり"。指導担当などと言われると"教え込まなきゃ"と早く1人前にさせたくて必死。これが善意に基づくから受け手は重苦しい。はたから見れば判っても当事者同士は...。一方で、1年目と5、10年目職員が同じような仕事で判りにくいのが対人援助職。入所施設の夜勤は1年目も10年目も業務内容は同じ。学校教員も教室での業務は同じ。違いは"質"、"役割"が増えるなどでしかない。だから同じ仕事をさせないとお鉢が回る...。よって指導がきつい。悪質なのは自分はそのままでモノ言えぬ新人に仕事を押し付ける場合。出来る、出来ないではなくさせようとする。それは指導でもチャレンジでもない。また、見て見ない振りをし続ける先輩、上司はもっと問題。何故ならそれは職員の質の向上を目指すOJTが崩壊し、組織の先が見込めないから。中に対人援助職以外で働く人がいた。彼女は上司の様子に気遣う話をした。常に同じフロアで指示が徹底するため応じなければ担当業務が終わらない。しかも誰もやってくれない。以前、対人援助の職業的特徴を①自己完結しにくい職場、②情報伝達しにくい職場、③責任回避しやすい職場、④組織を意識しにくい職場と整理したことを思い出した。

 対人援助職場では特に職員の成長がないと組織は崩壊の道をたどる。人が、職員が育つ...ために"考える習慣"が欲しい。会議では発言を聞き考え、発言して考える。歩いて"足"が、読んで"目"が、書けば"手"が考える。不思議だが就寝中に思いつくことがある。オンとオフが大事なのは承知だが、考えなくなれば成長しない。卒業生たちが寝ても覚めても仕事を考えているとは思わないが、それほど重く頭にこびりつく...のは寝ても覚めても...だ。1年、1年の積み重ねがいつのまにか大人にさせている様子に、あの時伝えたことが花開き始める姿が見え感謝!人を支援する仕事の答えは"未来"にある。それが組織の"未来"を創る! (2020.3)

「施設機能の外注化」

 明治、大正、昭和、平成、令和と移ろう中"家族形態"の変化はすさまじい。"家族"と共に社会福祉事業も変化する。例えば、保育園の始まりは野口幽香が貧民街の子どもに幼児教育=保育の必要性を感じ始めた。だから保育園利用は"保育に欠ける子"。長崎では岩永マキが教会の片隅で子どもたちを集め食事をさせ面倒を見た。今は児童養護施設「浦上養育院」。つまり、子どもが育つ環境を家族が創れない状態を補った。しかし、保育園は大きく変わった。授業参観日が設定され、英語や体操教室がある。だから"保育に欠ける子って、何?"と思うが、現代家族が求める幼児教育へのニーズが反映されている。貧しさゆえの両親共の就労ではなく女性の社会進出、母親ではなく1人の人間としての自己実現などが理由となった。それは"子育て"と言う家族内機能が社会的役割となったことを現す。家族の変化で高齢者介護も家族から外部へ移行し、介護保険等様々なサービス提供がある。つまり、社会福祉サービスは家族形態によって変化する。"専業主婦"がもてはやされた戦後の昭和では考えられない家族像と社会福祉サービスがある。家族像が人気漫画の変遷でも見える。『さざえさん』では"ちゃぶ台"が描かれ食事を囲む家族があるが、『ちびまる子ちゃん』では見られない。『クレヨンしんちゃん』に至っては"食卓"を見ない。同様に我が家も、当初は座卓だったが、DK時代にテーブルが必須となり、子どもが巣立った今は食卓を囲むことはまれ。食事場面が多くの家族像を描いたが、今や個別化の時代、同じものを食する食卓は化石のよう。"家族機能の外注(部)化"だ。

 家族機能の外注化が当たり前になった時代とともに、社会福祉施設も同様の現象がある。以前の社会福祉施設はすべて自前の職員だった。支援職員はもちろん、調理師や運転員等も正規職員だった。現在は、多くの施設が外注化をしているのが厨房関係。奥さんが"私作る人、貴方食べる人"と言い、家族内人間関係の希薄さを表している言葉がはやったことがあったが、現在の施設はまさに"厨房作る人、私食べる人"だ。専門性を発揮して分業すると合理性が増すが、暮らし向きは合理性だけでは"情"が薄くなる。相互乗り入れをしようにも厨房に入ることを法律が禁じている。合理性だけで片付けて良いのか...。また、運転業務の外注化では、事故処理等も含まれ、業務委託でリスク管理をしている。これらは家族機能の外注化と同様で「施設機能の外注化」だろう。時代の流れにさおさすつもりはないが、それがどのような変化をもたらすかは確認したい。"支援"の専門性を伸ばすためとの考えもあるが、"専門性"の前に施設には欠かせない"日常"がある。その日常を担保するために"施設機能の外注化"をしっかり検証しないと、何が専門なのか判らなくなる。(2019‐2)