日記

理事長日記

"マジョリティ"と"マイノリティ"

 中学卒業時、60人ほどの同級生に2人の就職者(バスの車掌と工場勤務)がいたと話したら、連れ合いが"頭も性格も良い同級生が集団就職列車に乗った...。結局、親だよね..."と。昭和歌謡に♫あゝ上野駅♫がある。当時は東京の北の玄関口は上野駅。集団就職後、ようやく居場所を得た若者の歌だ。"上野は おいらの 心の駅だ~"。古くは石川啄木の短歌がある。"ふるさとの訛なつかし停車場の人込みの中にそを聴きにいく"。上野駅で故郷のなまりを聞く姿が浮かぶ。中卒で都会に出た苦労はいかばかりか...。

 先月、政権交代時に、直近の歴代宰相10人が世襲か否かの記事をみた。すると、民主党政権の2人以外は菅前総理大臣だけ。菅氏は高校卒業と同時に上京し就職。その後、大学を卒業し政治を志し故小此木代議士の秘書、横浜市議を経て衆議院議員に。言語不明瞭と言われ続けたが、昔の東北人の朴訥な方言を考えればうなずけた。年代から集団就職と重なった。それよりもなによりも閉塞感のあるコロナ禍での光明のように思えたが、ショックアブソーバかと思うと、捨て駒のような印象が心中から湧き上がるのをぬぐえなかった。

 同じ頃、一世を風靡し他者の追随を許さなかった白鵬が引退した。15歳で志を立て来日。痩せたムンフバト・ダバジャルカル少年をスカウトする相撲部屋がなく帰国寸前、母国の先輩に紹介され残った。土俵際からのスタートだった。言葉の心配は想像できるが、太らなければならないのに慣れない食生活、上下関係の軋轢、稽古場での争奪戦。何をとっても少年が強いられた暮らしは異次元だったに違いない。今の白鵬を見て人物像をイメージするが、彼は異国に集団就職した...などと想う。ここまでくれば角界での地位は盤石か...。連勝記録こそ歴代1位を逃したが様々な記録を塗り替えた。しかし、繰り返し横綱審議委員会から警告や注意を受けた。それ故、最後まで日本社会になじめなかった...、大相撲と言う日本古来の文化を理解しきれなかった...とまで言われた。だが、元NHKアナウンサーの杉山氏は、不祥事続きだった時代に大相撲人気を支え今の興隆を支えたのは白鵬だと感謝のコメントを残した。勝ちにこだわり"横綱の品格"を問われ続けた。日本国籍を取得した時、自筆の本名の前で"俺の本名だけど、今はこの世にいない名前なんだ"と...。大相撲のしきたりは、日本人でも判りにくい。国技、神事と言われ、現代になじまない規則(慣習?)がある。大阪場所で女性知事が土俵に上がると公言したが"けがれ"を理由に拒否。今も変わっていない。また、親方は日本国籍でなければならず、これまで外国人力士が相撲協会の役員で活躍した姿を見ない。どこまで白鵬は挑戦できるか...。モンゴル育ちとは思えない流暢な日本語、最高峰の大横綱双葉山の研究、見識。どれをとっても、日本人であるとかないとかの域を超えた存在だと思うが...。

 最近、個人の努力が通じない現実がありすぎると思う。集団就職で都会に来た人たちは今日の礎をつくった。外国人労働者は...。彼らは一段下がった所から社会適応を強いられていないか...。母国では英雄でも帰化人はマイノリティ...。世襲以外はマイノリティ...。では、マイノリティとマジョリティの違いは?障害者はマイノリティ?いや、重度障害者がマイノリティ?障害者にマジョリティはいる?

"あんたもネクチャイして仕事に行かないと!"

最初の職場、知的障害児入所施設には2人の就労直前の利用者がいた。18歳を過ぎたが、成人入所施設が満床で移れなかった。2人は全く性格も行動も好きなことも違っていた。ただ共通していたのは、実習先から辞めさせないで欲しと頼まれるほど評価が高かった。だが児童施設に居続けるわけにもいかずそれぞれ就労系入所施設へ転出した。

 働く先輩を見て育つと"僕もやってみたい..."と漠然と思うようで、2人の後は僕が行くと考えていた人がいた。2人より年齢が高く障害程度も重かった。数を数えられない障害者が働けると思えなかったが、あまり熱心に実習をせがむのでほだされて失敗しても良い...、失敗したら判るだろう程度に2人が働いていたつてを頼ってお願いした。数の概念より心配だったのは利き腕の麻痺、重いものは持てなかった。1人では難しかろうともう1人、意思疎通が十分な利用者と共に3カ月限定の実習が始まった。1週間つきっきりで付き添い、次第に離れて2人で仕事に出るまで1か月かかった。

 しばらくして様子見に職場を訪ねると、管理者から意外な話を伝えられた。意思疎通が出来る利用者は予定通り終了。もう1人は継続。どう考えても麻痺があり、意思疎通が難しく、数えられない利用者が終了...。役割は5個ずつ結束する仕上げ係。意思疎通が出来る利用者は、結束機を使っている職員のペースにあわず、おしゃべりが過ぎて仕事に身が入らない。黙って見て下さいと念を押されもう1人を見ると、職員のペースに合わせてリズミカルに渡せる。気になって数え方を見た。確認のために職員が数える様子もない。管理者がそばに寄ってきて"どうも手の幅で数えているようです"。何が何だか分からないでいると、段ボールは2種類だけなので厚みは2種類。だからその違いが手の幅で判る彼は、職員のペースに合わせて渡すことが出来た。にわかには信じられず、しばらく見て納得した。だが、手の麻痺は?段ボールをつかんで渡すと考えていたが、手の甲に乗せ一方の手で上から押さえていた。これを自分で編み出したと聞き驚いた。自信たっぷりに仕事する顔が輝いていた。社長さんの計らいでご褒美を給料袋で頂いた。給料をもらい自信がつくと、怒りっぽかったのに、怒ることも少なくなり毎日仕事に行った。

 給料後最初の休日に買い物のお供を頼まれ休日返上で付き合った。嬉しそうに外出着に着替え、ポケットに給料を突っ込んで外出。"ところで何を買うの?""ネクチャイ!""ネクタイ?""そう、ネクチャイ!"出勤時、ネクタイをしなくてはいけないそうだ。必要ないのでやめるよう勧めるが"大人はネクチャイして仕事にいく!"と真っ赤なネクタイを購入した。次はラーメン屋。座ると"ラーメン!"と言いながら指を2本たてる。こちらの意向を無視し、奢ると言ってきかない。2人分払った帰り道"あんたもネクチャイして仕事に行かないと!"と。何のことか分からなかったが、どうもいい年になったので仕事に行きなさいと諫めていたようだ。"......"その時の彼は自信に満ちた顔だった。このことからこちらが勝手に力量を決めてかかってはいけないと教わった。麻痺がなんだ!重度がどうした!俺は俺だ!と言われた気がした。障害を重くしているのは、周囲にいる人のブレーキかもしれない...。

"♯We The 15"

 あっという間に熱が冷めてしまったパラリンピックは、アスリートの大会と言われるようになったが、IPC(世界パラリンピック委員会)は、"原点回帰"を提唱し、"♯We The 15"を今大会から始めた。ダウン症の少女が発言する映像があった。"15"は、世界人口の15%が障害者だから、すべての障害者の課題を...という意味。15%が障害者」って、多くない?厚生労働省の発表は936万人、総人口の7.4%なのに...IPC映像では顔にあざがある人も出演している。日本は範疇が狭く障害者の理解が限定的のようだ。

 "原点回帰"とは、パラリンピックが英国のストーク・マンデビル病院でグッドマン博士がリハビリテーションを目的に行ったスポーツ大会が起源だから。アーチェリーが最初の競技だが、当時は"スラローム"があり、車いすの操作技術を競うリハビリ目的らしい種目があった。ローマで初めてパラ大会が行われ、次の東京(前回)でオリンピック会場を使い毎回実施と決定した。また、ソウルでは、それまでの"パラプレジア(マヒ)"の"パラ"を"パラレル(並行)"の"パラ"とした。パラリンピックがオリンピックと並行の大会となり、選手を"パラアスリート"と呼び、スポンサーが付き障害者アスリートの大会となった。しかし、グッドマン博士が提唱したのは、障害を得て心まで病む人たちの"生きる喜びをスポーツで取り戻す"リハビリテーション(社会復帰)だったので、その原点に戻ろうということ

 日本のパラスポーツの父・中村裕医師は、ストーク・マンデビル病院に留学し、帰国後パラスポーツの発展に尽力、前回の東京パラ日本チーム団長だった。大分県に障害者施設・太陽の家を創り「保護より機会を」を理念に就労中心の支援と共に障害者スポーツの発展に尽力した。中村医師がモデルのNHKドラマで、車いす生活に悲観した中途障害者が車いすバスケに挑戦し生きる喜びを取り戻す姿があった。多くの中途障害者が自殺を考えるそうだが、ドラマではスポーツの力で恢復する姿があった。障害者にとってスポーツが特別な力を持つようだ。それが原点回帰、"♯We The 15"。

これまで健常者スポーツをベースにした競技が多かったが、次第に重度障害者も楽しめる"ボッチャ"や視覚障害者の"ゴールボール"など障害者のために提案された競技が加わった。次第に変化する競技が"マヒ(パラプレジア)"ではなくオリンピックと"平行(パラレル)"になる姿を表す。それは人間の可能性に挑む障害者=チャレンジドの素晴らしい姿だけでなく、障害者が趣味等を楽しみ、生きがいを見出す姿と重なる

パラスポーツ写真家の清水一二さんは七沢リハでの勤務経験がある。既に40年のキャリア。作品はスポーツを楽しむ障害者の真摯な姿、勝者の笑顔、悔し涙の敗者だけでなく、障害者への熱情も感じる。それは障害者の日常を映し出し、社会へのアプローチを観る。障害者には、スポーツが単なる勝負でなく豊かな人生へのツールとなっている。それは"インクルージョンふじさわ!"をミッションとする(福)藤沢育成会の目標と同じ。メダルや勝敗ではないパラスポーツの価値をみた。

"僕がお父さんを棄てることに決めた!"

「おちょやん」という朝ドラで、主人公(浪花千恵子がモデル)が奉公先へ旅立つ時、父が母の写真を持たせた。その時「うちは捨てられたんちゃう、うちがお父ちゃんを棄てたんや!」と涙を浮かべた。どこかで聞いたセリフ...だった。児童相談所で仕事をしたいとこの仕事に就いたが、児童福祉司はたった2年。それでも忘れられないセリフがある。それが"僕がお父さんを棄てることに決めた!"。衝撃的だが、彼は苦しみ、もがき、悶え、身体いっぱいの涙を全部絞り出すようにしながら、か細いが覚悟がみなぎる声で話した。

 6年生、担任から相談だった。盗癖と聞いたがひ弱な少年だった。消え入るような声でぼそぼそ話すので聞き取りにくい。存在感がなく友だちもいない。家庭訪問に条件があった。「車で来るな、玄関先で児童相談所と言うな!」。訪問すると、父は少年をなじるだけで話にならない。母はその場に表れない。とにかく病気だからどこにでも連れて行けという。だが、そう簡単に親子分離は出来ない。少年が少しずつ話し始めると、食べさせてくれないひもじさから盗んだ...。学校の必需品も万引きでそろえていた。そこまで困窮した様子は見えないが、子どもにお金を使わないことが徹底されていた。近所に住む成人した姉に様子を聞くと、継母子で母は全く子どもを見る気はなく、父は母に何も言えない。卒業も近く自宅から通学させたいが、食事もままならないまま安易に在宅を続けられず一時保護。

 保護後、少年は少しずつ快活になった。地元小学校を卒業したいので、父が来ることを願っていた。父を促したが動かず、日に日に少年がいない暮らしになった。父は"近所に子どもは長期入院したと話したので帰ってきたら困る!"の一点張り。子棄てだと思い、にがり切った。帰宅の道筋を探って実姉に話すと結婚するので引き取れない...と。結果、施設入所方向に。あまりに理不尽だと思いつつも、このまま帰宅しても少年の生活改善は見込めず会議に諮り施設入所が決まった。

せめて、卒業式に父が出席できないかと腐心したが、かたくなに拒否。ここまでくると子どもは託せないことが歴然とした。だが、少年に説明のしようがない...。少年から卒業式に出たいとせがまれた。そうしたいが、親が出席しないことをどう...などさまざまなことが交錯した。その頃、実姉から卒業式に出席させたいので同行して欲しい...と相談された。姉だけでは心もとなそうで日帰り帰宅を理由に同行した。当日、少し緊張気味だったが無事終了。そのままでは帰れず、3人で食事をして卒業を祝った。小学校卒業の門出が...と思ったが、少年は外食ではしゃぎ、姉も少しの役割を果した安堵感があった。

 保護所に帰り一番大切な話しをした。経過を少しずつ、少しずつ伝え、子どもに判るように、子どもを傷つけないように...。若造の福祉司がどこまで配慮できたか判らない。彼はその間、ずっと泣いていた。泣いて、泣いて、絞り出すような声で"わかった、僕がお父さんを棄てることに決めた!"...と。入所時、少年は笑顔だった。転勤で担当を離れたが"○○君、猛勉強で県立高校に入学!"と聞いた。当時は公立以外の進学は不可。最下位を争う成績だったが、本気で猛勉強したのだろう。心にほのかなぬくもりを覚えた。覚悟を決めた人間はどこまでも強い!

テレビ桟敷のオリンピック

五輪開催時に緊急事態宣言の地域が拡大された。"五輪をやるから気が緩む"や"庶民だけ自粛なんて"などの発言に苦虫をつぶす。選手たちは、入国時や毎日の検査、そして行動制限で外出もままならない。無断で東京タワー見物をした選手がIDカードをはく奪された。細心の注意を払う環境でがんばる選手を見ていない。それなのに訳の判らない理屈で恥ずかしげもなく許されようとする。そこでテレビ桟敷の五輪だが、チャンネルをひねりさえすれば複数競技を同時観戦でき、寝る頃には緊迫したゲームでぐったり。

 無観客のため歓声は少なかったが、試合中の選手や監督の声が生々しく臨場感が凄い。客席の関係者から歓声があがり臨場感がさらに増した。それでもお国柄があり、国情を反映した姿を見る。聞きなれないROCが活躍した。組織的ドーピング問題で、国として参加出来ず救済措置でロシアオリンピック委員会として出場。選手に過誤はないと納得。だが、国歌が問題でチャイコフスキーに治まった。かつて、有森裕子が連続メダルを獲得した時、金の選手は"国家のため"、銀は"家族のため"、そして有森は"自分で自分をほめてやりたい!"と。金はエチオピアで国威発揚、銀はロシア。ソ連からロシアに変わったばかりのお国事情が表れたと記憶に残る。

 今回は、日本のメダル獲得種目の変化が象徴的に見えた。スケートボードやサーフィンなど若者が活躍する姿に年寄りには五輪か?と思えた。古典的な競技と新たな文化が定着したスポーツが混在し、多くがプロ選手。前回の東京五輪ではプロは参加出来なかった。当時のIOC会長は国歌斉唱の廃止を検討していたと聞いた。見ていると日本名の外国代表や外国名の日本選手、他国でコーチや監督として活躍した人々など、どの国にも多様なルーツを持つ選手がいると判った。また、人種差別等への抗議行動もこれまでと異なり一部認められ表明された。"国"のワクを超えた人たちを見て、国威発揚、国家威信ではなく平和な地球、未来の創造を垣間見て世界の粋を集めた平和の祭典になりつつあると感じた。

 それにしても勝負は非情で、嬉し涙も悔し涙も見た。池江選手の努力は素晴らしく大病の末回復し1年の延期が間に合わせた。だがピークにいた選手は調整が難しかったようだ。スキャンダルが報道された選手の予選落ちに人間性が勝負を分けた...と思ったが、バドミントン女子ダブルスなど世界の頂点と言われながらメダルに届かなかった姿がトップを維持する難しさを表した。新型コロナウイルスによる1年が勝敗を分けた選手は確かにいた

 一方で、競技種目の変遷は国力や国民の興味関心に多大な影響があった。前回の東京五輪は、柔道、レスリングなど格闘技が華やかで、チーム戦は女子バレーが記憶に残るが、今回はバスケやサッカー、野球などのプロ選手の話題が華やか。また、フェンシングやアーチェリー等これまでなじみのない競技、新種目での躍動などが時代の変化とグローバル社会を印象つけた。オリンピックは国力がもの言うようで、ボイコットされたモスクワ五輪など政治に翻弄された歴史を持つ。その中でコロナが世界に蔓延する今の世界をのぞかせた。コロナ禍での五輪を歴史はどう評価するのか?それはしばらくの時間の経過が必要だ。それにしても、悲喜こもごもの五輪だった。

Qちゃんとミヨちゃんの恋

施設では男女別に暮らす。集団生活は一般的に"男子寮""女子寮"があるが、社会では男女が別れて暮らす方が珍しい。男女はお互いを尊重しあい共同生活をする。夫婦生活はその典型で、どちらかが一方的に優位な暮らしは成り立たない。五分五分かどうかは地域の文化や風習で異なり、子どもの頃に体験した暮らしぶりがその後の暮らしに影響するようだ。知的障害児も思春期を過ぎると多くの場合、男性は女性に、女性は男性に魅かれる。当時は成人施設に移行できない過齢児(年齢超過者)がいた。

 その中に20歳を過ぎたダウン症の男性がいた。担当ゆえ彼のこだわりの強さに悩まされた。食卓で一定の儀式を求めるが、先輩職員の真似をしても受け付けない。先輩職員が"いただきます"をした後、親指と人差し指でオーケーサインを出すと、彼も応じ嬉しそうに食事を始めた。だが、同じ動作では応じてくれなかった。そこで近づいてオーケーサインの輪に親指と人差し指を入れてリングを連ねると嬉々として食べ始めた。嬉しさから箸立ての底でポン!さらに喜び、コミュニケーション成立!だが、箸立てでポンと鳴らさないと次に移らなくなった。彼はオバケのQ太郎に似ているので"Qちゃん(当時はニックネームで呼ぶことが許容されていたのでこのまま書かせていただきます。)"と呼ばれていた。

 ある日、女子寮職員から"何とかしてよ!汚いじゃない!"としおれた草を手渡された。調べるとQちゃんが特定の部屋へ花のついた草を抜き取ったまま投げ入れていた。怪訝な想いでいると特定の女性がいる時だけだった。女性はミヨちゃん。少し年上でしっかり者。言語明瞭でコミュニケーション十分。Qちゃんは発語なし、IADL(手段的日常生活動作)は不十分。当初ミヨちゃんは受け入れがたい表情。女子寮職員からはやんやの催促。仕方なく"花をプレゼントするなら、土は取ろうよ!"と諭す。とにかくなんとか伝え、しばらくすれば忘れるだろう...と高をくくっていたが一向に納まらない。さらにQちゃんの一途な思いが伝わったのかミヨちゃんも花(草?)を持って笑顔を見せ、いつの間にか恋人同士のようになり、外で遊ぶ時は手をつなぎ歩いていた。穏やかな表情のQちゃんは、普段の頑固さは影を潜めた。ミヨちゃんは姉さん女房のように世話をやくようになった。

その頃、Qちゃんの母親が来て、成人施設が決まったという。入所施設ではなく通所施設(現:生活介護)で自宅から1人で通わせたいとの話。社会的なルール等に不安が残るため単独通勤は難しそうだが母親の願いに添うようにした。母子の努力の結果、Qちゃんは1人で通えるようになったが、それはミヨちゃんとの別れだった。

ある日の夕方、寮に帰る時間が過ぎたが2人はブランコに乗っていた。遠くからでは何を話していたかまで判らないが、ミヨちゃんがQちゃんに話す姿が見えた。その後、ゆったりと並行して動くブランコに座り続けた。退園の日、お見送りにミヨちゃんは来なかった。どんなに誘われても行こうとしなかったそうだ。そして、じっと座ったまま、さめざめと涙を流していたという。これでもう再び会うことのないさようなら...。人と人の心の通い合い、愛することの素晴らしさ、そして思いどおりにならない社会を見た。