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理事長日記
Qちゃんとミヨちゃんの恋
施設では男女別に暮らす。集団生活は一般的に"男子寮""女子寮"があるが、社会では男女が別れて暮らす方が珍しい。男女はお互いを尊重しあい共同生活をする。夫婦生活はその典型で、どちらかが一方的に優位な暮らしは成り立たない。五分五分かどうかは地域の文化や風習で異なり、子どもの頃に体験した暮らしぶりがその後の暮らしに影響するようだ。知的障害児も思春期を過ぎると多くの場合、男性は女性に、女性は男性に魅かれる。当時は成人施設に移行できない過齢児(年齢超過者)がいた。
その中に20歳を過ぎたダウン症の男性がいた。担当ゆえ彼のこだわりの強さに悩まされた。食卓で一定の儀式を求めるが、先輩職員の真似をしても受け付けない。先輩職員が"いただきます"をした後、親指と人差し指でオーケーサインを出すと、彼も応じ嬉しそうに食事を始めた。だが、同じ動作では応じてくれなかった。そこで近づいてオーケーサインの輪に親指と人差し指を入れてリングを連ねると嬉々として食べ始めた。嬉しさから箸立ての底でポン!さらに喜び、コミュニケーション成立!だが、箸立てでポンと鳴らさないと次に移らなくなった。彼はオバケのQ太郎に似ているので"Qちゃん(当時はニックネームで呼ぶことが許容されていたのでこのまま書かせていただきます。)"と呼ばれていた。
ある日、女子寮職員から"何とかしてよ!汚いじゃない!"としおれた草を手渡された。調べるとQちゃんが特定の部屋へ花のついた草を抜き取ったまま投げ入れていた。怪訝な想いでいると特定の女性がいる時だけだった。女性はミヨちゃん。少し年上でしっかり者。言語明瞭でコミュニケーション十分。Qちゃんは発語なし、IADL(手段的日常生活動作)は不十分。当初ミヨちゃんは受け入れがたい表情。女子寮職員からはやんやの催促。仕方なく"花をプレゼントするなら、土は取ろうよ!"と諭す。とにかくなんとか伝え、しばらくすれば忘れるだろう...と高をくくっていたが一向に納まらない。さらにQちゃんの一途な思いが伝わったのかミヨちゃんも花(草?)を持って笑顔を見せ、いつの間にか恋人同士のようになり、外で遊ぶ時は手をつなぎ歩いていた。穏やかな表情のQちゃんは、普段の頑固さは影を潜めた。ミヨちゃんは姉さん女房のように世話をやくようになった。
その頃、Qちゃんの母親が来て、成人施設が決まったという。入所施設ではなく通所施設(現:生活介護)で自宅から1人で通わせたいとの話。社会的なルール等に不安が残るため単独通勤は難しそうだが母親の願いに添うようにした。母子の努力の結果、Qちゃんは1人で通えるようになったが、それはミヨちゃんとの別れだった。
ある日の夕方、寮に帰る時間が過ぎたが2人はブランコに乗っていた。遠くからでは何を話していたかまで判らないが、ミヨちゃんがQちゃんに話す姿が見えた。その後、ゆったりと並行して動くブランコに座り続けた。退園の日、お見送りにミヨちゃんは来なかった。どんなに誘われても行こうとしなかったそうだ。そして、じっと座ったまま、さめざめと涙を流していたという。これでもう再び会うことのないさようなら...。人と人の心の通い合い、愛することの素晴らしさ、そして思いどおりにならない社会を見た。
「学ぶ」&「考える」とは...
人々はヒーローが好き!だから、試合後必ずインタビューがある。だが、野球選手もサッカー選手もお相撲さんも決まった言葉が多い。個人的には「感動を与える!」や「勇気を与えたい!」が嫌いだ。感情まで左右できるというおこがましさが気に入らない。だが最近、個性的な発言が増えた。社会的発言がある大阪なおみはインタビューを拒否し罰金を払い、精神的に追い詰められていると吐露した。休養宣言したがオリンピックでは聖火最終ランナーを務め、試合に出場したが敗退した。若い人が多いので自分の言葉で話すのは相当なプレッシャーだろう。ましてや大阪なおみのように社会的影響が大きい人は苦しかろう...、察するに余りある。
『プロサッカー 監督の仕事(KKカンゼン、森保一著)』を読んだ。副題に"非カリスマ型マネジメントの極意"とあった。当時サンフレッチェ広島の監督の森保一氏は、ご存じ日本代表、オリンピック代表の監督だ。「反省のない切り替えには意味がありません。しっかり反省したうえで、その試合における「成果と課題」を振り返って次に向かう。(P17)」とあった。これが象徴的で、自ら考えられない選手は試合中に役割を果せないと。"非カリスマ型"とは、指示に従ったプレーではなく、状況に応じたパフォーマンスを出せる選手。しかし、最近は"答え"を求めすぎてしまい、自らの"答"を生み出す力が弱った。
コロナ禍で開始時期がずれ朝ドラ『おかえりモネ』が始まった。気象予報士になる夢を追い勉強中。職場の若い医師から"知識を得たいのか、試験に合格したいのか!"と聞かれ"気象予報士になりたい!"と言うと"気象を知る勉強と、気象予報士になる勉強は違う!"。その前に、勉強し始めたモネが問題集を見ていると"勉強するなら絵本や漫画から始めれば良い"。また、問題集と絵本を前に"間が飛んでいる!"と中学生理科の教科書を手渡した。この一連の話しが今を現す。問題集では根源が判らない。根源を判ったつもりで問題集をやるとプロセスが判らず解答を鵜呑みにする。勉強≒学びとは、根源を理解しプロセスを深めなければ"答"を見出だせない。良い点を取る勉強は正解を求めすぎ意味を理解しないで終る。意味を理解する大切さが判っていない。
利用者支援は困っていることを支援し満足する。しかし、これでは支援を受ける人は自分で出来るようになれない。だから、ず~っと支援が必要になる。それでは支援が利用者の"自立"を妨げてしまう。ず~っと支援が必要なこともあるが、自分で出来るためには手伝うだけでは届かない。だから、究極の支援は"見えない支援"。"○○してあげる"ではない。だが、どうすれば良いか判らない。人は、多くの場合経験値で判断している。だから生活歴を見れば価値観や好みが判り予測が可能になる。言語化されない利用者の行動パターンが見え出す。これをデータ化したのが"記録"。だから、利用者から学ばなければ"支援"は出来ない。"〇〇してあげる!"は、支援ではなく"おしつけ"だと認識しなければならない。利用者からの学びを重ねて"考え"、自ら答を見出ださなければならない。自分自身がクリエイティブな存在にならなければ学んだことにはならない。(2021.8)
※「人間のあらゆる尊厳は思考のうちにある(パスカル)」
"マージャン療法?!"
特養勤務はわずかだが深かった。家族会の会長は毎週末訪れる利用者の娘。不便な場所だったが彼女には助っ人=息子(大学生)がいた。だが、彼は姿を見せず母の面会が済むまで車にいた。周到な準備をしている様子だったので聞くと"あの子は、私を苦しめた人と思っているんです。小学生の頃、髪を振り乱して母を追い、妄想に苦しめられた姿をず~と見ていましたから...」。それなら同行したがらないのでは...と尋ねると「判っているんですよ。病気だって。だから母親の手伝いなら許せるんでしょうね...。」「それで良いと思っているんです。」家族それぞれの想いを理解するのは本当に難しい。
ほぼ自立している人がいた。80歳後半で車イス、私物を持ち込み個室暮らし。ただ誰1人来訪者がない。辛酸をなめ、必死に生きた記録を読んだ...天涯孤独。赴任時、職員への苦情がすさまじかった。次第にカメラが趣味と知り施設周辺の草花を撮りに誘った。最初、怖がったがしだいにせがむようになった。施設のお祭りで大きく"○○氏 個展"と書き、模造紙2枚に重ねながら貼れるだけの写真を展示した。確実に苦情が減り私を"息子"と呼び出した。転勤を告げると"息子だから電話しても良いね..."。出られない時もあると伝え了解した。すると最後のお願いと"死んだら検体して欲しい。届も出した!"と書類を見せた。社会参加だと思った。転勤後、奇妙な電話に部下は切ろうとしたが説明して時折受け入れた。社会参加できない彼女を哀れに思うのではなく、彼女の努力のお供だと考えたが、電話は来なくなった。風の便りに亡くなったと聞いた。
寝たきりか、寝かせきりか良く判らないが、動きにくい高齢者ばかりの場ではそういうものだと思い込んでしまう。それを若手職員が気づかせてくれた。明治生まれの女性は中国で育ちテニスや麻雀を楽しんだ由。麻雀なら出来るだろうとの提案。しかし、今話したことも忘れる方が麻雀...想像すらできない...。それでも引き下がらない若手職員を諦めさせるために雀卓に誘った。所長は無類の麻雀好きで、職場で公認の麻雀に積極的。雀卓の前に座った彼女はすぐにジャラジャラとパイをかきまぜ、並べ、2段にして準備完了。驚いて見る職員に"早く"と促す。始まると"ポン"だの"チー"だの"リーチ"だの、実に手早く、姿勢もシャンとして楽しむこと30分程。帰り道、車イスの横で"すごいですね!独り勝ちでしたね"と声をかけると"あら、そんな失礼なことはしませんよ!"とぴしゃり!接待麻雀は、負けないように勝たないようにし、相手に花を持たすと聞いたことを思い出した。以後、所長命令の「マージャン療法」が定期的に行われた。元気を取り戻し明るい表情を喜んだ。ご主人は月1回程度の面会。"お元気になって良かったですね!""ありがとうございます!...、でも...つらいんです...""どうしてですか?""帰ろうとすると「行かないで...」と言われるんです..."と苦渋の表情。雀卓での彼女の眼の輝きが忘れられない。そして、ご主人の悲しい眼も...。人は、人と触れ合い癒され、人との葛藤に辛酸をなめ、人との交流で生きる力を得る。全てを投げ捨てたら生きるエネルギーを見出だせない。施設の役割を今一度深く、深く考えさせられた。
「ヤングケアラー」
最近"ヤングケアラー"とよく聞く。少し前は"老々介護""遠距離介護"だった。"老々介護"は、高齢者が高齢者を介護する問題。高齢者はそれだけで介護すべき対象と社会が捉えていた頃だ。背景に財政事情をちらつかせつつ、定年延長≒年金支給年齢延長、健康老人の社会的活動がニュースになると聞かなくなった。今は当時より深刻な問題が内在...。"遠距離介護"は、元都知事の『母に襁褓をあてるとき』が売れた頃。ケアは日常の問題なのに遠距離...。ケアを必要とする時のタイミングは計れるの...、など不思議だったが、1日使われなかった電気ポットからメールが届く商品が開発されたニュースを聞き理解した。また転居等で友達を失うなど社会的関係の希薄さが課題視され"遠距離介護"もうなずけた。だが、当時もヤングケアラーはいた。父が病に伏せた時、発作が心配で夜間も誰かが一緒にいた。小6、中1の長期休みは、交代で夜中にトランプなどをして父の気を紛らわすお供だった。もちろん、学校に行けないほど追い詰められていないが、親のケアは当然だった。しかし、今のヤングケアラーは常態化した問題。学校に行けない・・・、授業中眠たい・・・、宿題も出来ない・・・など。
『ヤングケアラー わたしの語り(生活書院、渋谷智子編)』が昨年出版された。7人の体験談だ。難病の母を看た女性は「自主的に母と向き合うという選択をしている。その選択をした今の貴方を、未来のあなたは誇りに思っている。<P41>」と。彼女は大学進学を断念した。精神疾患の母に翻弄された男性。両親が視覚障害者ゆえ幼児期から通訳を担ったコーダ(※)。障害のある妹がいる女性は、すべてが妹の様子で決まる日常で自分を見失いそうになりながら母の頑張りに応じ努力した日々を綴る。また、認知症になった祖母の介護を母から迫られた女性は「"家族は協力!おうちのお手伝いをして偉いね"とまわりの人たちから美談にされ、SOSを出せずにいるのではないでしょうか<P164>」と。編者の成蹊大学文学部教授の澁谷智子氏は、ヤングケアラーを 「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子ども」と定義。
学生時代、講座「社会問題」で非行少年の傾向を聞き驚愕した。今は不快用語だが‟欠損家庭(現:ひとり親家庭)に多い"。中1で父が他界したので"俺だ!"と思った。単なる傾向だが、「社会の理解」や「公共政策と福祉」の講座を担当する時、気になった。それらをひっくるめて新たな社会福祉領域だと考えついたのは"当事者"は多様だということ。サービスを必要とする本人だけでなく周辺で暮らす家族等の問題を見るようになった。50年前、社会福祉は入所施設だけ。しかし、現代は地域で暮らすためのサービスが増加し、周辺のニーズが認められた。しかもそれを求める人の多くが"もの言えぬ人"。障害者基本法では障害とは"症状固定"が前提条件。つまり恒常的にサービスを必要とする人。その周辺の人たちが社会の課題として発見されるまでにボディブローのようにじわじわと効く"苦"がある。日々の支援でこの"苦"を感じているか、どう"応じて"いるか・・・。(2021.7)
※コーダ:聴覚障害者を親に持つ健聴の子どもを意味する。
"おんま~!おんま~"
一時保護所勤務は、出勤しないと子どもたちの様子が判らない。体調ではなく一時的な場だから入所も退所も突然がある。だから、常に子どもの構成や人数が変わりそれぞれの課題が違うので個人としても、集団としてもその都度変わる。
前日に2歳の男児が保護された。突然の第2子出産だが夫は出張で不在。両親共地方出身で頼れる人はいない。今どきは考えられないだろうが、当時としても珍しくこれっきり。今日は、その子をどう寝かせるかが課題だと思っていたところに"今日韓国から帰国した2歳半の女児を一時保護"と聞いた。男児1人でもどうしようと考えていたのに、同年齢の女児、しかも韓国から帰国したばかり...?
ぐずる男児。固まったまま動かない女児に話しかけるときょとんとしている。様子が変なので確かめると日本語は話せない...。そうか、言葉が判らないのか...。身振り手振りで話しかけると、見知らぬ人に関われて一層固くなりどんどん表情が曇った。見たこともない料理のようで夕食も手に取らない。発語は"おんま~!"だけ。ただ泣きじゃくる。夕暮れになるとさらに"おんま~!"を繰り返す。パジャマに着替えさせ、2人を並べて寝かせて読み聞かせ。絵があるから何となく分るようで女児も落ち着く。いつもしてもらっていた男児は安心してスヤスヤ。女児が寝入ったと思い離れようとすると泣き出す。泣きだすと男児も泣き出す。2人の泣き声の合唱で他の子どもも落ち着かず騒ぎ出す。
仕方なく2人をおんぶとだっこで寝かす。しばらくすると寝入るが、布団に寝かせようとすると"おんま~!"。その声で起き出す男児。泣き止まない2人を前にほとほと参って、こっちが泣きたい気分になった時"子どもは泣くのが仕事だ!ほおっておけ!"の指示。職員宿直だった課長の言葉。"うそ!児相の課長がこんなこと言うのか..."と驚いたが、今なら、時にはあきらめることも大事だと伝えていたと判る。ほとほとまいった頃に男児は泣き疲れ寝入った。すると女児が寝間着1枚ですぅ~っと玄関を出た。追いかけると母親と一緒に来た道を歩き出す。"おんま~!"と叫びながら走る。何度か繰り返し、疲れきったのか、あきらめたように寝入った。母親は帰国早々に体調を崩し入院していた。
相棒が韓国語のにわか勉強で焼肉屋さんから簡単な単語を教わってきた。それを見ながら話すが全く理解しない。韓国語も判らないのかと思ったが、発音が問題で女児には韓国語と認識できなかったと判った。それでも保護所暮らしに慣れた頃に動物園に行った報告を受けた。"ゾウさんだね!"の保育士の声に"○○○"と彼女。"そうだね、ゾウさんだね!"ともう一度。その時、彼女は笑顔で"ゾウ・さ・ん"となぞった。この時、おそらくこれまでと違う言葉だと気付いたのだろう。その後、次々と単語を覚え会話が出来るまでになった。言葉が判ると安定し笑顔が増えた。
男児は親せきが遠方から到着し翌日退所。保護所暮らしが続いた女児も母親が退院しお迎えに来た。夜間指導員ゆえ母親と手をつなぐ女児を見なかったが、満面の笑みが十分思い浮かぶ。安堵した女児を想いフワフワと温かい気分になった。それにしても人生何が起きるか判らない...。そしてひたすら我慢した彼女の強さと賢さが焼き付いた。(2021.6)
"コロナ禍"の中で...
GW直前、検診に行くと虫歯があった。自覚なし、痛みもなし。ただ、舌であたると妙な違和感...。「治療しましょう」「はぁ~」。口の下のヘルペスが治ってからにしようと言われ、痛みもないのでGW明けに予約した。翌日、のどにイガイガを感じたが気にも留めなかった。ただ"えへん、えへん"とカラ咳をするのもはばかるご時世が気になった。次の日、イガイガが増え始めた。虫歯に重~い痛みを覚えた。そうなると、のどのイガイガも気になり始めた。だが、"熱なし...""頭痛なし..."。コロナ禍で大事なのは...、そうだ"味覚障害はない!""大丈夫..."と、心の中で繰り返しつぶやき始めた。
そんな時、事業所から電話があった。相談したい...と言われ、お散歩コースに入れ訪問した。"大丈夫...、歩く力がある""熱なし...""それにしてものどが痛い..."。仕事中、常に熱が気になった。ヘルペスが出るといつも40度近くの熱を出し、布団の中で汗だくになり数日を過ごした。今なら、PCR検査、隔離、入院...。最悪の事態を考え、よどんだ空気が我が身を包んだ。おり悪く娘家族の引っ越しで孫2人が泊まった。それは良いが、こちらの体調が気がかり。熱の気配はなくのどの痛みだけが強まった。次第にガラガラ声。孫たちはそれぞれに遊ぶが、久しぶりのおじいちゃんと遊ぼうと繰り返し近寄ってくる。嬉しいのに"コロナだったら..."と気をもみながら過ごした。
思い起こすと良く風邪を引いた。小学生の頃、発熱で1週間ほど休んだ。久し振りに登校するとテスト。"寒"が書けなかった。母に見せると"98点なの?"と聞かれ"休んでいる間に習ったんだ!"と応えたら"休んだのは貴方の責任でしょ!"。そりゃそうだが...もごもご。娘の成人式が近づく頃、多忙を極めていたこともあってヘルペス→のどの痛み→鼻水といつものコースで高熱の予兆。だが、成人式は待ってくれない。妻の仕事も待ってくれない。当日、付き添うつもりだったが、高熱を出し布団の中でうんうんと唸っていた。娘は予約した美容院へ行き振り袖姿で1人式場に向かい、帰宅後淡々と1人で食事をした。"すまん"と思うが、間の悪いことはあるものだ。
体調を崩し、発熱にうなされ、心まで弱ることを何度も体験した。普段でもうつさないようにと思うが、コロナ禍ではお互い気を使いさらに緊迫し、コロナ禍ゆえのヒートアップ。だから、寝る時の"おやすみなさい"が、明日の朝、元気で会えますように...となり、"おはよう"は、無事に目覚めたよ...の気持ちが増す。寝る時"何かあったら、ケータイに電話してね!"と言われると、普段なら"何、言ってんだ!"と思うが、"うん..."と言いながら"そんなことになったらどうしよう..."と。考えてみれば、最初の緊急事態宣言下では激減した"人流"が第4波、3回目の緊急事態宣言ではどうにも下火にならず、延長戦を迎えさらに拡大した。1人ひとりの考え方などと言ってはいられない。翻って、自らの風邪症状は1回目の緊急事態宣言時とは違う"気のゆるみ"か...。それにしてもよどんだ空気のGWだった。あまりに長い風邪症状なのでクリニックに受診した。風邪薬を持って帰宅する時、妙な安堵感があった。(2021.06)