日記

湘南あおぞらの施設長・課長日記

「気配り・心配り・感謝」(湘南あおぞら 課長 石川大助)

湘南あおぞら

「日本文化のすばらしいところ10選」という言葉をクリックした。

・礼儀正しい

・きちんと列を作って並ぶ

・電車の地下鉄が時間どおりにくる

・おもてなしの文化が隅々まで行き届いている

・チップの習慣がない

・治安が抜群に良い

・自動販売機がいたるところにある

・ウオシュレット付きの清潔なトイレ

・学校は生徒たち自身で掃除する

・落とし物・忘れものをしても後日みつかることがある

現代日本で生活している中ではごく当たり前に感じる事ばかりだ。

また、別な言葉をみつけクリックした。

「海外で不思議がられる、日本人ぽい仕草や考え方8選」

・いろんな場面で軽く会釈

・何かと小さく拍手

・横断歩道で車が譲ってくれたら小走り

・食べる前に小声で「いただきます」

・電車やバスでのスマホはメッセージのみ

・駅で乗車順の列を探す

・小雨でも傘をさす

・すぐにノーと言いづらい

思わず『へえ~』となるほど自然にしている行動だ。

育った環境が違えば考え方も違うし行動も違う。ごく当たり前のことだ。

場所や相手によって見え方や感じ方も異なる。自分にとっては当たり前な事も、相手にとっては当たり前ではない事もある。

コロナ渦の今だからこそ大事にしたいのは、相手、周りへの「気配りや心配り、感謝」だ。言うは易く行うは難し、まだまだ途中な事ばかりだ、、、。

気配りとは全く話が違うが、この季節に楽しみにしている事がある。

田植え直前の水のはった田んぼに夜の空模様が映り込む景色だ。風も穏やかで月が映り込むと最高だが、空が映るだけでもとなんとも言えない幻想的な風景になる。余計なのは蛙の大合唱も漏れなくついてくる事だ。

「第51回 東日本大震災から10年」(湘南あおぞら 施設長 倉重 達也)

湘南あおぞら

先週の木曜日、311日は東日本大震災から10年の節目の日でした。二万人以上の死者・行方不明者を出したこの災害は、震源地からは遠い藤沢で経験した私にとっても、走行中の道路が大きく揺れるなど、記憶にはまだ生々しいものがあります。テレビで見た津波に飲み込まれる街の映像はこれが現実のものなのかと疑ったりもしました。

 それから10年経った2021年は、新型コロナウイルス感染症の影響かあるいは未だに傷の癒えない被災地の状況を配慮してからなのか、報道の内容に表現を抑えたというか、重厚な感じを与えるものが多かった気がします。

 

 当然のことながら震災直後は津波の映像や倒壊した建物などの被害状況に関する報道が次々とされましたが、この10年の間に、被災者の忘れてはいけないと言う思いと、忘れたいと言う気持ちの二つの葛藤が、地道に取材を重ねている報道する側にも微妙な影響を与え、その伝える内容に変化をもたらしたのかも知れません。

 あるいは、この10年間に他にも熊本地震や広島の土砂災害、御岳山の噴火などの様々な自然災害があり、東日本大震災の被災者が当事者から第三者、あるいは支援者へと変わったり、また当事者に戻ったりと時の流れの中で他者との関係性が様々に変化し、地層のようにその想いが堆積して来たことが表れたのかも知れません。より被災者の気持ちに寄り添った、そして年輪を重ねてきた一人ひとりの気持ちの変化が報道に深さと広がりを持たせたのだと思います。

 交通インフラがほぼ震災前の水準に戻り、防波堤、護岸整備も7割が完成したと言っても、子どもや親、兄弟を亡くした人の悲しみは癒えることがありません。

 大勢の人が少しずつ、その人のできる範囲で被災者に寄り添い、時を積み重ねながら、それも何十年、何百年単位で関わりながら、やっとあたりまえの日常に戻るのでしょう。

以上

私にとっての栄養ドリンク的な一曲(湘南あおぞら 課長 石川 大助)

湘南あおぞら

先日見ていたテレビ番組で、年代別 に「あなたにとって〇〇の曲は?」といくつかテーマを挙げて街頭インタビューをしてランキングを付けていく番組があった。

すぐ思いついたのが、秦基博の「グッバイ・アイザック」だ。

2013年にリリースされた曲で、テレビアニメのエンディング曲にも使用されていた。

テンポよいリズムにのって前向きな歌詞が流れて、覚えやすい言葉が耳に残り聴いているうちに口ずさんでしまう。

『描いているほど現実はうまくいかなくても そう 

誰だって がんばっているから もどかしくなる』

1回きりだろって 奮い立たせ 突き抜けろ 今』

『積み上げた昨日に きっと 嘘はないから』

この曲を聴いていると、今は明日へ、明日は次へ、その次へとつながって、今が自分自身をつくっているのだと思わせてくれる。今この時の失敗も自分の成長で、いつか役に立つと踏ん張らせてくれる。

詰まった心にちょっとしたゆとりの隙間が空くと、私の中の「ほっこりアンテナ」が立ち、小さな事柄にもほっこりできる自分を取り戻せる、私にとっての栄養ドリンク的な一曲。

このほっこりアンテナが利用者のなにげないいつもの行動に、ちょっと違った気づきを加えてくれる役に立つことも、、、。

いつものあいさつも今日もできたと思わせてくれたり、すれ違う姿に安堵したりと当たり前に見える事は、当たり前ではなく大切な事だと思わせてくれる。

今、社会全体を見渡せば一層大事さを感じますね。

「第50回 説明はすれども正当化はせず」(湘南あおぞら 施設長/倉重達也)

湘南あおぞら

フランソワ・ラブレーの研究者として知られている渡辺一夫の著作の中に、「ある教祖の話(a)」として宗教改革者「カルヴァン」を扱った物語があります。

 その中に、カルヴァンの影響を受けたジュネーヴの民衆がカトリック教会を略奪破壊し、過激に教会を糾弾したのにも理由があったというようなことが書いてあります。

例えば、カトリック教会が無知な信者を欺くためにおこなった例として次のようなものをあげています。洗礼前に死んだ幼児が、改めて洗礼を受ける際に一時息を吹き返したというような幻覚を与える目的で死体内へ空気を入れるトリックを使ったとか、ザリガニに小さなローソクを付けて放ち、亡霊が出たような感じにする仕掛けをしただとか、数世紀来使徒ペトロの脳髄としてあがめられていたものが、ただの軽石にすぎなかったというような珍妙な事実が明るみに出たというのです。そしてこのことがカルヴァンやルッターにカトリック教会に対して反逆を企てさせたと言うのです。

 渡辺一夫はその物語の中で、カルヴァンの研究者の言葉を引いて、「こうしたキリスト教の精神的失格(カトリック教会の堕落)は、民衆の反動としての暴力を正当化しはしないが、これを説明するものである」と言っています。

 どんな行為にも理由はあるでしょう。そして最近は「説明責任」と言う言葉がよく使われます。説明をされると納得した気になってしまいますが、いくら説明責任が果たされたとしても、その前にその行為が、「正しい」か「正しくない」かの判断があるということを忘れてはいけないと渡辺一夫は訴えたかったのだと思います。

十月桜から(湘南あおぞら 石川大助)

湘南あおぞら

先日、家の近所を息子と散歩した時に今年も開花している桜を見かけた。この時期に桜が見られるのはちょっとした楽しみになっている。

開花している花は少なく全体の1/3くらいしか咲かず、春の桜ようにぎっしりと開花

して見ごたえがあるわけではないが、春咲きとは違って控えめに咲く味わい深さを感じられるのが好きだ。

調べてみると10月~12月頃に咲く種類はいくつかあり、この桜は十月桜(ジュウガツザクラ)と呼ばれている種のようだ。他にも春と秋に2度咲く桜もあるらしい。

 今年は新型コロナの影響で夏のお祭り行事などは中止となり季節感を感じる風物詩が少なく寂しさを感じる。そんな中で今年も変わらず咲いている事に安堵感を覚えてしまう。

 桜の場所を後にして歩いていると見慣れた建物、当たり前に咲いている草花も「今年も在る」と思わせてくれる。その瞬間、気持ちが和んでいく。

ちょっと忘れてしまっていたことを思いださせてくれた気がした。

たまにはあって欲しい特別感もよいが、当たり前にある日常を大事にしたいと思わせてくれた散歩でした。

天災は忘れた頃にやってくる(湘南あおぞら 施設長 倉重 達也)

湘南あおぞら

寺田寅彦が言ったとされるこの至言も、昨今の河川の氾濫のニュースなどのように記憶の生々しいうちに次々とやってくると多くの人も指摘するように人災ではないかと思いたくなります。

一口に災害といってもいろいろあります。寺田寅彦は関東大震災の経験をこのように表現しました。人が人生における大地震に見舞われる周期と地球規模の大地震が起きる周期が違うということを科学者でもある寺田は表現したかったのでしょう。

新型コロナ感染症の流行で、カミュの「ペスト」が売れているそうです。19世紀末に大流行したペストを経験した人は生存していないと思うのでまさに感染症の流行も「忘れた頃にやってくる」災害の一つに数えられると思います。

天災か人災かという議論も、地球温暖化のように人間の営みが自然現象に多大な影響を与える時代になると複雑な要因が錯綜して「天災」と「人災」の境界線が失われてきているのではないでしょうか。ひょっとすると環境の変化に対応して人間の方が突然変異をおこして泥の中でも住めるようになるかも知れません。

人間は偉大であるのか愚かであるのか。今の時代はまさに混とんとした世界に踏み込みつつあります。

以上

(写真)あおぞらの庭に咲いた花