日記
湘南あおぞらの施設長・課長日記
「第50回 説明はすれども正当化はせず」(湘南あおぞら 施設長/倉重達也)
フランソワ・ラブレーの研究者として知られている渡辺一夫の著作の中に、「ある教祖の話(a)」として宗教改革者「カルヴァン」を扱った物語があります。
その中に、カルヴァンの影響を受けたジュネーヴの民衆がカトリック教会を略奪破壊し、過激に教会を糾弾したのにも理由があったというようなことが書いてあります。
例えば、カトリック教会が無知な信者を欺くためにおこなった例として次のようなものをあげています。洗礼前に死んだ幼児が、改めて洗礼を受ける際に一時息を吹き返したというような幻覚を与える目的で死体内へ空気を入れるトリックを使ったとか、ザリガニに小さなローソクを付けて放ち、亡霊が出たような感じにする仕掛けをしただとか、数世紀来使徒ペトロの脳髄としてあがめられていたものが、ただの軽石にすぎなかったというような珍妙な事実が明るみに出たというのです。そしてこのことがカルヴァンやルッターにカトリック教会に対して反逆を企てさせたと言うのです。
渡辺一夫はその物語の中で、カルヴァンの研究者の言葉を引いて、「こうしたキリスト教の精神的失格(カトリック教会の堕落)は、民衆の反動としての暴力を正当化しはしないが、これを説明するものである」と言っています。
どんな行為にも理由はあるでしょう。そして最近は「説明責任」と言う言葉がよく使われます。説明をされると納得した気になってしまいますが、いくら説明責任が果たされたとしても、その前にその行為が、「正しい」か「正しくない」かの判断があるということを忘れてはいけないと渡辺一夫は訴えたかったのだと思います。
十月桜から(湘南あおぞら 石川大助)
先日、家の近所を息子と散歩した時に今年も開花している桜を見かけた。この時期に桜が見られるのはちょっとした楽しみになっている。
開花している花は少なく全体の1/3くらいしか咲かず、春の桜ようにぎっしりと開花
して見ごたえがあるわけではないが、春咲きとは違って控えめに咲く味わい深さを感じられるのが好きだ。
調べてみると10月~12月頃に咲く種類はいくつかあり、この桜は十月桜(ジュウガツザクラ)と呼ばれている種のようだ。他にも春と秋に2度咲く桜もあるらしい。
今年は新型コロナの影響で夏のお祭り行事などは中止となり季節感を感じる風物詩が少なく寂しさを感じる。そんな中で今年も変わらず咲いている事に安堵感を覚えてしまう。
桜の場所を後にして歩いていると見慣れた建物、当たり前に咲いている草花も「今年も在る」と思わせてくれる。その瞬間、気持ちが和んでいく。
ちょっと忘れてしまっていたことを思いださせてくれた気がした。
たまにはあって欲しい特別感もよいが、当たり前にある日常を大事にしたいと思わせてくれた散歩でした。
天災は忘れた頃にやってくる(湘南あおぞら 施設長 倉重 達也)
寺田寅彦が言ったとされるこの至言も、昨今の河川の氾濫のニュースなどのように記憶の生々しいうちに次々とやってくると多くの人も指摘するように人災ではないかと思いたくなります。
一口に災害といってもいろいろあります。寺田寅彦は関東大震災の経験をこのように表現しました。人が人生における大地震に見舞われる周期と地球規模の大地震が起きる周期が違うということを科学者でもある寺田は表現したかったのでしょう。
新型コロナ感染症の流行で、カミュの「ペスト」が売れているそうです。19世紀末に大流行したペストを経験した人は生存していないと思うのでまさに感染症の流行も「忘れた頃にやってくる」災害の一つに数えられると思います。
天災か人災かという議論も、地球温暖化のように人間の営みが自然現象に多大な影響を与える時代になると複雑な要因が錯綜して「天災」と「人災」の境界線が失われてきているのではないでしょうか。ひょっとすると環境の変化に対応して人間の方が突然変異をおこして泥の中でも住めるようになるかも知れません。
人間は偉大であるのか愚かであるのか。今の時代はまさに混とんとした世界に踏み込みつつあります。
以上
(写真)あおぞらの庭に咲いた花
「点から線へ」(湘南あおぞら 課長 石川 大助)
筆に墨を含ませる
墨を含ませた筆を硯から引き上げる
引き上げた筆を紙におく
おいた筆を求める方向へ動かす
求める地点で筆を止める
筆を引き上げる
新た地点に筆をおく
求める方向に筆を動かす
これらの動作を繰り返して形が生まれる。
単純な動作を繰り返すだけなのに思った通りに出来上がらない。
点から始まり線になり形を成しいていく過程で何かが起こる。墨を含ませすぎた、筆をおく位置が違った、筆をおく前に紙に墨が垂れた、筆に墨を含ませすぎた事で滲みが広がりすぎた、筆に含ませた墨が少なく過ぎて線にならない「こんなはずでは・・・」「ちがう」と。
難しい、実に難しいのです。
白い紙に点をうつ前からある数え切れない程のハードルを越えるためには、刃を研ぐように集中力を高め、心の内をコントロールし、完成のイメージとを練りあげ「今だ」のタイミング=「覚悟」する自分を待つのだ。始めたら止められない。意思をもって点を線に変え形を成し終えるまでの数秒から数分の間、集中を切らさずに進むのみ。
これらを体現していたのが前衛書家の井上有一だ。
茅ヶ崎市と寒川町で教師をしながら前衛書家として活躍をしていた人物がいた。墨と紙に向き合い新たなモノクロームの世界を表現していた。
数々作品を残しているが、「貧」シリーズが私は好きだ。文字が人に見えてくる。目の前に立つと、ただただ圧倒され迫ってくる迫力が半端ない。
しかし、見ているとどこか微笑ましさ、優しさを感じた。
ここしばらく大きな展覧会はなく見ていないが、機会があったら是非見たい。
今の自分は何を感じるのか目の前に立ってみたい。
「ビデオ撮り」(湘南あおぞら 倉重達也)
新型コロナウイルスの終息の目途が立たない中、春の選抜高校野球が中止になったり、プロ野球、Jリーグの開幕が延期、大相撲は無観客試合の開催などさまざまなイベントが中止になったりしています。
藤沢育成会はいち早く4月11日に予定していた法人全体研修の中止を決定しました。
しかし、この研修は1年の初めに勤務者を除く役職員200名以上が集まり、今後の法人の方針を確認したり、様々な課題について意見を交換しあったりする大切な場でもあります。
中止のままでよいのか?
どうやって、法人の思いを職員に伝えたらよいのか?
こんな難問について研修担当の若者達の発想は素晴らしい!
冊子にまとめるだけでなくビデオ撮影をしてわかりやすく職員に伝えましょうという企画が生まれました。それも撮影から、編集に至るまですべて自前で行っているらしい(「いるらしい」と言うのはまだ完成版ができていない段階だからですが)。
という訳で私も、ビデオカメラの前で5分間のビデオ撮りと言う初めての経験をさせてもらいました。
当日は、声は出ない、言葉は籠る、視線は原稿を見っぱなしの散々たる結末でしたが、とても貴重な経験を積むことができました。
この体験による教訓をあえて言えば、何をするにしても、この場合はビデオに向かって話すということですが、発声や身振りなどはすぐに身に着くものではなく技術的な積み重ねが必要だと言うこと。それと、当事者の思いは当事者になってみないとわからないということの二つでした。
以上
『春の匂いとリラックス』(湘南あおぞら 石川大助)
ついこの間、通勤中に「沈丁花(じんちょうげ)」の匂いが一瞬香った。
沈丁花は春先に小さな毬のような塊になって咲く香りの強い花で、季節を感じさせてくれるこの時期の代表的な花の一つだ。
人それぞれに好きな匂い、リラックスする匂いはあると思うが、私の場合は入れたてのコーヒーの香りが何とも落ち着く。
コーヒー好きの私としてのベストは、挽きたての豆で入れたコーヒーの香りだが、もっぱら手軽な1回分のドリップコーヒーが重宝している。
日に飲む回数はインスタントの方が多いかもしれないが、、、
しかし、残念なことに花粉が飛び散るこの時期は、鼻がつまって匂いを感じにくくなっていることが多いのでリラックス効果は半減している。
そんな時期でも気軽に楽しんでいるのが、入浴だ。湯船に我が家で取れたレモンを数個ずつ入れると爽やかな香りと湿度がよい感じに混じって広がりかなりのリラックス効果が得られる。
レモンを触っているだけですっきりとした気分になれる。私の思いこみと色の効果もあるのかもしれない。さらに手軽な入浴剤と合わせれば色々と楽しめる。
いまだコーヒー風呂は試したことはない。
2、3か月間位の期間限定であるが、これからの通勤道中は、沈丁花の香りが一層強く香ってくるのが楽しみだ。
それぞれのリラックス方法で春を迎えてください。