日記

施設長・課長日記

ボランティアって?(相談支援プラザ 伏見康一)

相談支援プラザ

ネガティブな告白になるが、ボランティアにちょっと疲れてしまった。もとより学生時分から楽しみや居場所感覚で時間があるときにやれる範囲で続けていたが、頼まれると嫌とは言えずに続けていたという言い方もある。

就業してからも単発で参加したりしていたが、公私混同や立場を弁えるという事が煩わしくなりだんだんとボランティア活動に行かなくなってしまった。かといって福祉以外のボランティアには食指が動かない。つまりは自ら鼓舞せねばならない呪縛から逃れたかっただけなのかもしれない。

きっと元来、ボランティア情熱度が高いタチではないのだろう。思い返してみればボランティア活動した意味など考えてこなかった。ボランティアをしてますよ、なんて思っていなかった。気の合う仲間がいて自分の心地よい居場所があった、というだけだった。

自分ができることは限られている。頼まれてもお願いされてもやれない事もある。ただ会いたい仲間がいて、好きな場所がある。きっとこの先も絶対に忘れる事のない記憶。ボランティアは他人に惑わされることではないはず。なぜだが天邪鬼な私意が前に動こうとしている。

「第51回 東日本大震災から10年」(湘南あおぞら 施設長 倉重 達也)

湘南あおぞら

先週の木曜日、311日は東日本大震災から10年の節目の日でした。二万人以上の死者・行方不明者を出したこの災害は、震源地からは遠い藤沢で経験した私にとっても、走行中の道路が大きく揺れるなど、記憶にはまだ生々しいものがあります。テレビで見た津波に飲み込まれる街の映像はこれが現実のものなのかと疑ったりもしました。

 それから10年経った2021年は、新型コロナウイルス感染症の影響かあるいは未だに傷の癒えない被災地の状況を配慮してからなのか、報道の内容に表現を抑えたというか、重厚な感じを与えるものが多かった気がします。

 

 当然のことながら震災直後は津波の映像や倒壊した建物などの被害状況に関する報道が次々とされましたが、この10年の間に、被災者の忘れてはいけないと言う思いと、忘れたいと言う気持ちの二つの葛藤が、地道に取材を重ねている報道する側にも微妙な影響を与え、その伝える内容に変化をもたらしたのかも知れません。

 あるいは、この10年間に他にも熊本地震や広島の土砂災害、御岳山の噴火などの様々な自然災害があり、東日本大震災の被災者が当事者から第三者、あるいは支援者へと変わったり、また当事者に戻ったりと時の流れの中で他者との関係性が様々に変化し、地層のようにその想いが堆積して来たことが表れたのかも知れません。より被災者の気持ちに寄り添った、そして年輪を重ねてきた一人ひとりの気持ちの変化が報道に深さと広がりを持たせたのだと思います。

 交通インフラがほぼ震災前の水準に戻り、防波堤、護岸整備も7割が完成したと言っても、子どもや親、兄弟を亡くした人の悲しみは癒えることがありません。

 大勢の人が少しずつ、その人のできる範囲で被災者に寄り添い、時を積み重ねながら、それも何十年、何百年単位で関わりながら、やっとあたりまえの日常に戻るのでしょう。

以上

 体の管理(サービスセンターぱる/課長 只熊 裕子)

サービスセンターぱる

先日、1年に一度の検診日でした。

まだ飲みなれない白いバリュームは、誰よりも時間をかけて飲んでいるんだろうなと思いながらも、今回も時間をかけて飲みました。

何よりも、検診の時間は、私にとっては異空間みたいな時間を感じます。人々が次から次へと検診項目に並び、いつもせかせか働いている人達が何も考えずに体と向き合う時間、いわゆる物でいうと検品のような、そんな時間のような気がしました。

そんな検診で、初めてマンモグラフィを経験しました。私の血縁でも乳がんを発症した人が身近にいた為、以前よりきちんと受けたいなと思っていたので、よい機会でした。女性は、家事や育児、そして仕事と、なかなか自分のことを優先しようと思っていても、いつも後回しになってしまいがちな人が多いのではないかと思います。現在は男性も家事や育児に参加する方も増えていますが、なかなかそうはいかない方もいるのではないかと思います。私は年をとればとるほど、長生きしないといけないな、と思う時があります。年をとるほど、背負うものが増えていくような気がしています。だからこそ、今回は後回しにせず受けてみました。

そこでとても印象的だったのが、みんなが黙々と検診を受け、する側とされる側も淡々と流れる中、マンモグラフィの担当の女性の方は、とても親身で丁寧に説明をしてくれて、検診を受ける大切さや周囲にもお薦めしてほしいという話をしてくれました。この日の検診の一連の流れの中で、心が動かされ、改めて受ける大切さを感じさせられた瞬間であり、毎年受診しようと思わされました。

当たり前のように仕事をして、当たり前のように生活をしていますが、体は完璧ではない為、自分にとって必要な体の管理を心掛けていきたいと思います。

マスクでの生活(湘南ゆうき村 アポロ 課長 高橋 羽苗)

湘南ゆうき村

マスクでの生活がすっかり日常となりました。

マスク映えメイク、マスク映えメガネ、マスク映えヘアスタイルから、マスクたるみを予防する顔のストレッチなどマスク生活の中でいろいろなものが考えられて発信されて、おもしろく見たりそんなビジネスに驚いたりしています。

マスクでの生活では、声が聞き取りにくい・表情が伝わりにくいなどいろいろなコミュニケーションのとりにくさが挙げられていて、声がこもったり口の動きが見えなかったり、リモート会議では誰が話しているのかさえわからず、反応しにくいことも多いです。

そんな中、いつも以上に目線や態度が大切になるかと思いますが、自分自身を振り返るとなかなかできていないことが多いように思います。言語そのもので伝わる情報と、言語と非言語コミュニケーションを合わせた伝わり方では、伝えたいことの本質の伝わり方に差が出てくると言われます。

職員同士のやりとりで「伝わっている」と感じられる時や、話が伝わってくる人はやっぱり言葉だけではなく、反応をしっかりしてくれる人だったり、その時その時に目が合う、姿勢がちゃんと向いているなど。

言葉だけではなく姿勢や相槌、目線、声のトーンも大切に、普段以上に丁寧に伝えられるようにありたいなと思います。

話は少し変わりますが、マスクをしている顔でしか会ったことがない人がマスクを外すと、驚くことがありませんか。見えない部分を補完して理想化する脳の働きだそうですが、私はその違いになかなか慣れず認識するのにもとっても時間がかかります。何かいい方法はないものなのでしょうか。

ゆうき村の畑に出ていたふきのとう。収穫して春を皆さんと感じました。

「正しく恐れる」(サービスセンターぱる 課長 鈴木 保志)

サービスセンターぱる

外出時に「鍵をかけた?」「エアコン切った?」「窓閉めた?」等と確認する習慣が自分にはある。今は何となく念のためのコミュニケーション程度のことであるが、ふと過去の自分の言動を思い出す。

10代後半から上京し一人暮らしを始めたが、アパートの鍵をかけたか、ガスの元栓をしめたか、エアコンは、電気は・・色々なものを執拗に確認していた。この手のエピソードを話すと数限りなく奇怪な話となる為(例えば、ガスの元栓をしめすぎて破壊し、逆に不安になる等)、ここでの詳細は必要ないが、ある時徐々に落ち着いていることに気づいた。

考えられる1つ目の要因は、自分が働くようになり親から経済的自立が出来、何かあっても自分で解決できるだろうという自信につながったこと。   

2つ目に色々なことの仕組みがわかってきたこと。例えば保険に入れば何かあっても保証される、全うにしていれば大丈夫。そもそも鍵をかけ忘れ誰かに入られても盗まれるようなものがあるか?

3つ目に、大らかな性格の人が身近にいることで「それ大丈夫なの?」と感じることを全く気にしない様子に安心を覚え、その経験の積み重ねに自分の姑息な考えが払拭されてきた、この3点が思い当たる。

実態を知り正しく理解する、あるいは自分なりの根拠や解釈で解消できることを見逃し、本質ではなく表層で右往左往してしまうことが自分には多い。

コロナウイルスについても実態がわからない状況から徐々に感染予防の対策が確立されつつあり、生活様式も変わってきた。法人内でも厚労省や市町村保健所の基準を根拠にした上で、様々なケースに対して柔軟な対応が求められている。

コロナに対して「正しく恐れる」という言葉を耳にするが、正しく恐れる為には、情勢を理解し実態を知る必要がある。まだまだ実態も不透明で対応が刻々と変化をし気が抜けない日々が続くが「正しく恐れる」がいつか正しくすれば恐れる必要がない日が来ることを願ってならない。

『よもや よもやだ!』(みらい社 課長 大澤健二)

みらい社

先日、ご高齢の男性を保護した。

その男性は、坂道のガードレールを伝いながら登っていた。

「●●時25分(たしか)、靴は履いている」と判断が迷う。

「外気温2度でジャンバー着ていない...」「散歩ではないな」。

近くの駐車場で方向転換。片側一車線の国道で、この時間でも車の量は多い。

私:「おじいさん、どこ行くの?」

じいさん:「もう歩けない」

私:「おじいさんさ、どこ行くのよ?」

じいさん:「ちょっと休むから、そこに座る」

私:「座る場所ないから、(壁)ここにつかまって」

おじいさんが壁につかまっている間に、警察へ連絡。

私:「高齢の男性を保護したので、パトカーで来て下さい。」

交換手:「住所はどの辺ですか?何歳ぐらいですか?」

私:「住所はわかりませんが、○○の交差点を△△方面に向かう途中の、タイヤショップがあって居酒屋があってバイク屋がある当たりの反対側歩道です。年齢はたぶん、80代後半だと思います。」

交換手:「わかりました。付近にいる警官を向かわせます。」

男性は長袖のシャツしか着ていなかった。

車からブランケットを出し、男性の肩を包んで上からジャンバーを掛け、歩道の生垣に座らせてもらいパトカーが来るのを待つ。

56分位して、2台のバイクで警官が到着。

パトカーではなかったが、早い到着で良かった。

警官①は若手で20代後半前、警官②は30代半ばくらいなのだろう。二人とも声も肌も若い感じがするが、明らかに警官②は先輩か上司なんだろう。

警官は、男性に色々質問するが、質問と答えは一致しない。当然だろう。

警官に家を聞かれた男性は、家を案内する事になってしまった。

「大丈夫かなぁ・・・」

男性に両手を前にしてもらい、私が両手で手を引く姿勢で移動する。男性はこの移動方法に慣れている様子で、腕への力の入れ具合は丁度良かった。

今まで保護してきた時の警官達の対応は、まずパトカーに乗せ2人のうち一人の警官が所在不明者の届がないかを署に問い合わせ、もう一人は要保護者の対応にあたるという連携。今回は様子が違う。

「そこが家だよ」「あれ、玄関がなくなっている」と、男性の言葉に合わせ「おじいさんこっち?こっちじゃないみたいだから、どこなの?」

「こっちだったけな」男性は案内を続ける。警察官はその通り家を探す。

15分位歩き、男性がいよいよ歩けなくなりマンションのエントランスに座り込んだ。

警官①:「おじいさん、ここは入口だからこんな所に座っちゃだめだよ。」

私:「おじいさん、ここ(エントランスの生垣)に座りましょうか」

警官②:「後は我々で対応しますので、お引き取りいただいて大丈夫ですよ。」

私:「ブランケットとジャンバーは、私の物をかけているんですが」

警官②:「持ち帰っていただいて大丈夫ですよ」

私:「いやいや、それじゃあ寒いでしょう」

警官②:「後はこちらに任せて大丈夫ですから、ありがとうございました。」

私:「たぶんトイレにしばらく行ってないと思うので対応して下さいね。よろしくお願いします。」

きっと大丈夫。

二人の警察官に後は任せ、その場を離れた。

「じいさん、大丈夫かなぁ。鼻水でてたしなぁ。」

心配ともやもや感の残る帰路。

われわれ福祉関係者は、対人援助職として、利用者、ご家族に『安心だね』や『大丈夫だね』を少しでも多く感じてもらえるような支援をしたいものだと思いました。